高校化学では、溶解度積 $K_{\text{sp}}$ を使って「沈殿が生じるかどうか」を判定したり、緩衝液が「pH の変化を抑える」ことを学んだりします。
しかし、これらは個別の現象として扱われ、それぞれの計算問題は独立した手順として覚えることになります。
大学化学では、これらの現象を「複数の平衡が同時に成立する系」として統一的に扱います。
どの平衡式にも共通して現れるイオン濃度(共通イオン)に着目し、複数の平衡定数の式を連立させて解く ── この一つの方法論で、共通イオン効果の定量計算、緩衝液のpH計算、沈殿条件の判定、さらには選択的沈殿まで、すべて同じ枠組みで解くことができます。
高校化学では、難溶性塩の溶解平衡を溶解度積 $K_{\text{sp}}$ を使って扱います。 たとえば塩化銀 $\text{AgCl}$ の溶解平衡は次のように書きます。
$$\text{AgCl(s)} \rightleftharpoons \text{Ag}^+\text{(aq)} + \text{Cl}^-\text{(aq)}$$
溶解度積は $K_{\text{sp}} = [\text{Ag}^+][\text{Cl}^-]$ であり、$25 \; {}^\circ\text{C}$ で $K_{\text{sp}} = 1.8 \times 10^{-10}$ です。 高校では、この式を使って飽和溶液中のイオン濃度を計算したり、「イオン濃度の積が $K_{\text{sp}}$ を超えたら沈殿が生じる」という判定を行ったりします。
一方、緩衝液については、酢酸と酢酸ナトリウムの混合溶液が酸や塩基の添加に対してpHの変化を抑えることを学びます。 緩衝液のpH計算では、弱酸の電離定数 $K_a$ を使います。
高校では、溶解度積と緩衝液は別々の単元として学びます。 しかし、よく見ると両者には共通の構造があります。 どちらも「複数の化学種が一つの溶液中で平衡状態にある」系であり、ある種のイオンの濃度が複数の平衡式に同時に関わっています。 次のセクションでは、この共通構造を明確にします。
大学化学では、一つの溶液中で同時に成立する複数の平衡をまとめて扱います。 たとえば、塩化銀の飽和溶液に塩酸を加える場合、溶液中では少なくとも2つの平衡が同時に成り立っています。
ここで $\text{Cl}^-$ は両方の式に登場します。 塩酸から供給される $\text{Cl}^-$ が溶液中の $[\text{Cl}^-]$ を増加させると、$K_{\text{sp}} = [\text{Ag}^+][\text{Cl}^-]$ の関係を満たすために $[\text{Ag}^+]$ が減少しなければなりません。 つまり、$\text{AgCl}$ の溶解度が下がります。 これが共通イオン効果と呼ばれる現象です。
同様に、酢酸と酢酸ナトリウムの緩衝液では、酢酸の電離平衡と酢酸ナトリウムの電離(完全電離)が同時に成り立ち、$\text{CH}_3\text{COO}^-$ が共通イオンとして両方に関わっています。
大学化学のアプローチは、これらの状況を「複数の平衡定数の式を連立方程式として解く」という一つの方法論で統一的に処理することです。
この記事を読み終えると、以下のことができるようになります。
1. 共通イオン効果を $K_{\text{sp}}$ の式から定量的に導出し、溶解度の変化を数値で計算できる
2. ヘンダーソン・ハッセルバルヒの式を $K_a$ の式から導出し、緩衝液のpHを計算できる
3. イオン積 $Q$ と $K_{\text{sp}}$ の比較により沈殿条件を定量的に判定できる
4. $K_{\text{sp}}$ の異なる複数の塩を含む系で、選択的沈殿の条件を計算できる
5. これらすべてが「平衡定数を連立させる」という一つの方法論であることを理解できる
ここでの議論の出発点は、前の記事で学んだ平衡定数の熱力学的な意味です。 平衡定数 $K$ は温度のみで決まる定数であり(📖 C-10-1 で詳しく解説)、系がどのような経路で平衡に達したかによらず同じ値をとります。 この性質があるからこそ、複数の平衡式を連立させることに意味があります。 各平衡定数は独立に成立し、溶液中のすべてのイオン濃度はこれらの条件をすべて同時に満たさなければなりません。
次のセクションでは、最も基本的な例として、共通イオン効果を定量的に導出します。
塩化銀 $\text{AgCl}$ の飽和溶液(純水中)を考えます。 $25 \; {}^\circ\text{C}$ での溶解度積は $K_{\text{sp}} = 1.8 \times 10^{-10}$ です。
純水中では $\text{AgCl}$ が溶解して $[\text{Ag}^+] = [\text{Cl}^-]$ となるので、
$$K_{\text{sp}} = [\text{Ag}^+][\text{Cl}^-] = s^2$$
ここで $s$ は溶解度(mol/L)です。これを解くと、
$$s = \sqrt{K_{\text{sp}}} = \sqrt{1.8 \times 10^{-10}} = 1.3 \times 10^{-5} \; \text{mol/L}$$
ここまでは高校で学ぶ計算です。 では、この飽和溶液に $0.10 \; \text{mol/L}$ の $\text{NaCl}$ を加えるとどうなるでしょうか。
$\text{NaCl}$ は強電解質なので完全に電離し、溶液中の $[\text{Cl}^-]$ を大幅に増加させます。 いま、$\text{NaCl}$ 添加後の $\text{AgCl}$ の溶解度を $s'$ とします。 溶液中の $[\text{Ag}^+]$ は $\text{AgCl}$ の溶解からのみ供給されるので $[\text{Ag}^+] = s'$ です。 一方、$[\text{Cl}^-]$ は $\text{NaCl}$ からの $0.10 \; \text{mol/L}$ と $\text{AgCl}$ の溶解からの $s'$ の合計です。
$$[\text{Cl}^-] = 0.10 + s'$$
$K_{\text{sp}}$ の式に代入します。
$$K_{\text{sp}} = [\text{Ag}^+][\text{Cl}^-] = s'(0.10 + s')$$
ここで重要な近似を行います。$s'$ は純水中でも $1.3 \times 10^{-5} \; \text{mol/L}$ と非常に小さく、$\text{NaCl}$ を加えるとさらに小さくなることが予想されます。 したがって $s' \ll 0.10$ であり、$0.10 + s' \approx 0.10$ と近似できます。
$$1.8 \times 10^{-10} = s' \times 0.10$$
$$s' = \frac{1.8 \times 10^{-10}}{0.10} = 1.8 \times 10^{-9} \; \text{mol/L}$$
共通イオンを含む塩を濃度 $c$ で加えたとき、難溶性塩の溶解度 $s'$ は次のように変化します。
$$s' \approx \frac{K_{\text{sp}}}{c} \quad (s' \ll c \text{ のとき})$$
$K_{\text{sp}}$:難溶性塩の溶解度積、$c$:共通イオンの外部からの供給濃度
この式は $K_{\text{sp}}$ の定義式に $[\text{Cl}^-] = c + s' \approx c$ という近似を代入して得られた結果です。 共通イオンの濃度 $c$ を大きくするほど溶解度 $s'$ は小さくなるという関係を、定量的に表しています。
上の例では、$0.10 \; \text{mol/L}$ の $\text{NaCl}$ の添加により、$\text{AgCl}$ の溶解度は純水中の $1.3 \times 10^{-5}$ から $1.8 \times 10^{-9} \; \text{mol/L}$ へと、約7000分の1に減少しました。 これが共通イオン効果の定量的な姿です。
共通イオン効果は、新しい法則ではありません。溶解度積 $K_{\text{sp}}$ が一定であるという事実から、数学的に必然的に導かれる結果です。
$K_{\text{sp}} = [\text{Ag}^+][\text{Cl}^-]$ が温度一定のもとで変わらない以上、一方のイオン濃度が増えれば他方は減るしかありません。「積が一定」という制約が、共通イオン効果のすべてです。
ここまでで、$K_{\text{sp}}$ の式という一つの平衡定数に、外部からのイオン供給という条件を連立させることで、共通イオン効果を定量的に導出しました。 次のセクションでは、同じ「平衡定数を連立させる」方法論を、弱酸の電離平衡に適用し、緩衝液のpH計算に使います。
酢酸 $\text{CH}_3\text{COOH}$(濃度 $c_a$)と酢酸ナトリウム $\text{CH}_3\text{COONa}$(濃度 $c_s$)の混合溶液を考えます。 この溶液中では、次の平衡が成り立っています。
$$\text{CH}_3\text{COOH} \rightleftharpoons \text{CH}_3\text{COO}^- + \text{H}^+$$
電離定数は次の通りです。
$$K_a = \frac{[\text{CH}_3\text{COO}^-][\text{H}^+]}{[\text{CH}_3\text{COOH}]}$$
一方、$\text{CH}_3\text{COONa}$ は強電解質なので完全に電離し、$\text{CH}_3\text{COO}^-$ を $c_s \; \text{mol/L}$ だけ供給します。 ここでの構造はセクション3と全く同じです。$\text{CH}_3\text{COO}^-$ が「共通イオン」であり、弱酸の電離平衡と塩の完全電離を連立させています。
$\text{CH}_3\text{COONa}$ からの $\text{CH}_3\text{COO}^-$ の供給量 $c_s$ は、弱酸の電離で生じる $\text{CH}_3\text{COO}^-$ よりもはるかに大きいので、次の近似が成り立ちます。
これらを $K_a$ の式に代入します。
$$K_a = \frac{c_s \cdot [\text{H}^+]}{c_a}$$
$[\text{H}^+]$ について解きます。
$$[\text{H}^+] = K_a \cdot \frac{c_a}{c_s}$$
両辺の $-\log_{10}$ をとると、
出発点:$[\text{H}^+] = K_a \cdot \dfrac{c_a}{c_s}$
ステップ1:両辺の $-\log_{10}$ をとります。
$$-\log_{10}[\text{H}^+] = -\log_{10} K_a - \log_{10}\frac{c_a}{c_s}$$
ステップ2:$\text{pH} = -\log_{10}[\text{H}^+]$、$\text{p}K_a = -\log_{10} K_a$ を用います。
$$\text{pH} = \text{p}K_a - \log_{10}\frac{c_a}{c_s} = \text{p}K_a + \log_{10}\frac{c_s}{c_a}$$
最後の変形では $-\log(a/b) = \log(b/a)$ を使いました。
$$\text{pH} = \text{p}K_a + \log_{10}\frac{[\text{A}^-]}{[\text{HA}]}$$
$\text{p}K_a = -\log_{10} K_a$:弱酸の電離定数の負の常用対数
$[\text{A}^-]$:共役塩基(塩)の濃度
$[\text{HA}]$:弱酸の濃度
この式は $K_a$ の定義式に共通イオン効果の近似($[\text{A}^-] \approx c_s$、$[\text{HA}] \approx c_a$)を代入し、対数をとって導かれた結果です。 名前は大学化学で初めて登場しますが、計算の内容自体は高校で学ぶ弱酸の電離平衡の延長にあります。 緩衝液のpHは、$\text{p}K_a$ の値と、弱酸と共役塩基の濃度比だけで決まることを示しています。
酢酸($K_a = 1.8 \times 10^{-5}$、$\text{p}K_a = 4.74$)を $0.10 \; \text{mol/L}$、酢酸ナトリウムを $0.10 \; \text{mol/L}$ で混合した緩衝液のpHを求めます。
$$\text{pH} = \text{p}K_a + \log_{10}\frac{c_s}{c_a} = 4.74 + \log_{10}\frac{0.10}{0.10} = 4.74 + 0 = 4.74$$
弱酸と共役塩基の濃度が等しいとき、$\text{pH} = \text{p}K_a$ となります。 これは、$\log(1) = 0$ という数学的な帰結です。
酢酸ナトリウムの濃度を $0.50 \; \text{mol/L}$ に変えると、
$$\text{pH} = 4.74 + \log_{10}\frac{0.50}{0.10} = 4.74 + \log_{10} 5 = 4.74 + 0.70 = 5.44$$
共役塩基を5倍に増やしても、pHの変化は 0.70 にとどまります。 これが緩衝作用の定量的な姿であり、pHの変化が対数スケールで抑えられる理由です。
誤解:緩衝液に酸や塩基を加えてもpHはまったく変化しない。
正しい理解:ヘンダーソン・ハッセルバルヒの式を見ると、酸や塩基の添加は $[\text{A}^-]/[\text{HA}]$ の比を変化させるので、pHは変化します。 ただし、変化は対数スケール($\log$)で効くため、$[\text{A}^-]/[\text{HA}]$ の比が大きく変わらない限り、pHの変化は小さくなります。 緩衝液の容量(弱酸と共役塩基の物質量)に比べて添加量が少ないとき、比の変化が小さいので「pHがほとんど変わらない」のです。 逆に、緩衝容量を超える量の酸や塩基を加えると、pHは大きく変化します。
ここまでで、弱酸の電離平衡と塩の電離を連立させることで、緩衝液のpH計算式(ヘンダーソン・ハッセルバルヒの式)を導出しました。 セクション3の共通イオン効果とまったく同じ「平衡定数の連立」という方法論が使われていることを確認してください。 次のセクションでは、この方法論をさらに拡張し、沈殿が生じる条件の定量的判定と、$K_{\text{sp}}$ の異なる複数の塩を含む系での選択的沈殿を扱います。
沈殿が生じるかどうかの判定は、高校でも学びます。 ここでは、その判定を平衡論の枠組みで整理します。
一般に、難溶性塩 $\text{M}_m\text{A}_n$ の溶解平衡に対して、溶液中の実際のイオン濃度から計算した積をイオン積 $Q$ と呼びます。
$$Q = [\text{M}^{n+}]^m[\text{A}^{m-}]^n$$
$Q$ と $K_{\text{sp}}$ の関係は次の通りです。
| 条件 | 意味 | 系の挙動 |
|---|---|---|
| $Q < K_{\text{sp}}$ | 不飽和 | 沈殿は生じない。さらに塩が溶解できる。 |
| $Q = K_{\text{sp}}$ | 飽和(平衡) | 溶解と析出が同じ速度で起こり、見かけ上変化がない。 |
| $Q > K_{\text{sp}}$ | 過飽和 | $Q = K_{\text{sp}}$ になるまで沈殿が析出する。 |
この判定は前の記事(📖 C-10-1)で学んだ反応商 $Q$ と平衡定数 $K$ の比較の特殊ケースです。 $Q > K$ のとき反応は逆方向(この場合は沈殿の方向)に進む、という一般的な原理をそのまま適用しています。
ここからが、複数の平衡を連立させる方法論の威力が発揮される場面です。
$\text{Ag}^+$ と $\text{Pb}^{2+}$ がともに $0.010 \; \text{mol/L}$ で含まれる溶液に、$\text{Cl}^-$ を少しずつ加えていく状況を考えます。 両方の塩化物の溶解度積は次の通りです。
$\text{AgCl}$ の沈殿が始まる条件は $Q = [\text{Ag}^+][\text{Cl}^-] = K_{\text{sp}}$ ですから、
$$[\text{Cl}^-] = \frac{K_{\text{sp}}(\text{AgCl})}{[\text{Ag}^+]} = \frac{1.8 \times 10^{-10}}{0.010} = 1.8 \times 10^{-8} \; \text{mol/L}$$
一方、$\text{PbCl}_2$ の沈殿が始まる条件は $Q = [\text{Pb}^{2+}][\text{Cl}^-]^2 = K_{\text{sp}}$ ですから、
$$[\text{Cl}^-] = \sqrt{\frac{K_{\text{sp}}(\text{PbCl}_2)}{[\text{Pb}^{2+}]}} = \sqrt{\frac{1.7 \times 10^{-5}}{0.010}} = \sqrt{1.7 \times 10^{-3}} = 0.041 \; \text{mol/L}$$
つまり、$[\text{Cl}^-]$ が $1.8 \times 10^{-8} \; \text{mol/L}$ を超えると $\text{AgCl}$ が沈殿し始めますが、$\text{PbCl}_2$ が沈殿し始めるのは $[\text{Cl}^-]$ が $0.041 \; \text{mol/L}$ に達したときです。 両者の間には6桁以上の差があります。
したがって、$[\text{Cl}^-]$ を $1.8 \times 10^{-8}$ から $0.041 \; \text{mol/L}$ の間に制御すれば、$\text{Ag}^+$ だけを $\text{AgCl}$ として沈殿させ、$\text{Pb}^{2+}$ は溶液中に残すことができます。 これが選択的沈殿です。
選択的沈殿の「選択性」がどの程度よいかを定量的に確認します。 $\text{PbCl}_2$ の沈殿が始まる $[\text{Cl}^-] = 0.041 \; \text{mol/L}$ のとき、溶液中に残っている $[\text{Ag}^+]$ はいくらでしょうか。
$K_{\text{sp}}(\text{AgCl})$ の式を使います。
$$[\text{Ag}^+] = \frac{K_{\text{sp}}(\text{AgCl})}{[\text{Cl}^-]} = \frac{1.8 \times 10^{-10}}{0.041} = 4.4 \times 10^{-9} \; \text{mol/L}$$
もとの $[\text{Ag}^+] = 0.010 \; \text{mol/L}$ に対して $4.4 \times 10^{-9} \; \text{mol/L}$ ですから、$\text{Ag}^+$ の $99.99995\%$ 以上が沈殿しています。 $\text{PbCl}_2$ が沈殿し始める前に、$\text{Ag}^+$ はほぼ完全に除去されています。
選択的沈殿は、$K_{\text{sp}}$ の異なる複数の塩の溶解平衡を同時に考え、共通イオンの濃度を制御することで実現されます。
$K_{\text{sp}}$ が小さい塩ほど少量の共通イオンで沈殿し始めるため、$K_{\text{sp}}$ の差が大きい組み合わせほど、選択的沈殿の精度が高くなります。
この計算は、セクション3で行った共通イオン効果の計算とまったく同じ構造です。$K_{\text{sp}}$ の式に共通イオン濃度を代入し、もう一方のイオン濃度を求めているだけです。
高校化学で学ぶ金属イオンの系統分析(陽イオンの定性分析)は、選択的沈殿の原理を体系的に応用したものです。 第I族($\text{Ag}^+$, $\text{Pb}^{2+}$)を $\text{HCl}$ で沈殿させ、第II族($\text{Cu}^{2+}$, $\text{Cd}^{2+}$ など)を $\text{H}_2\text{S}$(酸性条件)で沈殿させ、第III族($\text{Fe}^{3+}$, $\text{Al}^{3+}$ など)を $\text{NH}_3$ 水で沈殿させるという操作は、各段階で共通イオンの濃度を変えることで $K_{\text{sp}}$ の異なる塩を選択的に沈殿させています。
高校では「この試薬を加えるとこの沈殿が生じる」という手順として覚えますが、大学の視点では「$K_{\text{sp}}$ の大小関係と共通イオン濃度の制御」という一つの原理で全体が理解できます。
ここまでで、平衡定数を連立させるという方法論を3つの場面で使いました。 セクション3では $K_{\text{sp}}$ と共通イオンの供給を連立させて溶解度の変化を求め、セクション4では $K_a$ と塩の電離を連立させて緩衝液のpHを導出し、このセクションでは複数の $K_{\text{sp}}$ を連立させて選択的沈殿の条件を求めました。 次のセクションでは、これらの方法を組み合わせた応用問題を解きます。
$\text{Cu}^{2+}$ と $\text{Zn}^{2+}$ がともに $0.010 \; \text{mol/L}$ で含まれる溶液に $\text{H}_2\text{S}$(飽和濃度 $0.10 \; \text{mol/L}$)を通じます。 溶液のpHを調整することで、$\text{CuS}$ だけを沈殿させ $\text{ZnS}$ を溶液中に残す条件を求めます。
硫化物の溶解度積は次の通りです。
$\text{H}_2\text{S}$ は二段階で電離します。全体の反応と、その平衡定数(2つの電離定数の積)は次の通りです。
$$\text{H}_2\text{S} \rightleftharpoons 2\text{H}^+ + \text{S}^{2-}$$
$$K_1 K_2 = \frac{[\text{H}^+]^2[\text{S}^{2-}]}{[\text{H}_2\text{S}]} = 1.1 \times 10^{-21}$$
ここで3つの平衡を連立させます。$\text{H}_2\text{S}$ の電離平衡、$\text{CuS}$ の溶解平衡、$\text{ZnS}$ の溶解平衡です。 共通イオンは $\text{S}^{2-}$ と $\text{H}^+$ であり、溶液のpH($[\text{H}^+]$)を制御することで $[\text{S}^{2-}]$ を調節し、選択的に沈殿を起こします。
$[\text{H}_2\text{S}] = 0.10 \; \text{mol/L}$(飽和)とすると、$[\text{S}^{2-}]$ は次のように $[\text{H}^+]$ の関数として表されます。
$$[\text{S}^{2-}] = \frac{K_1 K_2 \cdot [\text{H}_2\text{S}]}{[\text{H}^+]^2} = \frac{1.1 \times 10^{-21} \times 0.10}{[\text{H}^+]^2} = \frac{1.1 \times 10^{-22}}{[\text{H}^+]^2}$$
$\text{CuS}$ が沈殿する条件:$[\text{Cu}^{2+}][\text{S}^{2-}] \geq K_{\text{sp}}(\text{CuS})$ より、
$$[\text{S}^{2-}] \geq \frac{6.0 \times 10^{-37}}{0.010} = 6.0 \times 10^{-35} \; \text{mol/L}$$
$\text{ZnS}$ が沈殿しない条件:$[\text{Zn}^{2+}][\text{S}^{2-}] < K_{\text{sp}}(\text{ZnS})$ より、
$$[\text{S}^{2-}] < \frac{2.0 \times 10^{-25}}{0.010} = 2.0 \times 10^{-23} \; \text{mol/L}$$
したがって、$[\text{S}^{2-}]$ を $6.0 \times 10^{-35}$ 以上 $2.0 \times 10^{-23}$ 未満に保てばよいことがわかります。 これをpHの条件に変換します。$[\text{S}^{2-}] < 2.0 \times 10^{-23}$ の条件を使うと、
$$\frac{1.1 \times 10^{-22}}{[\text{H}^+]^2} < 2.0 \times 10^{-23}$$
$$[\text{H}^+]^2 > \frac{1.1 \times 10^{-22}}{2.0 \times 10^{-23}} = 5.5$$
$$[\text{H}^+] > 2.3 \; \text{mol/L}$$
この結果は $[\text{H}^+] > 2.3 \; \text{mol/L}$ という非常に高い酸性度(pH $< -0.4$)を要求しています。 実用上は、$0.3 \; \text{mol/L}$ 程度の塩酸酸性(pH $\approx 0.5$)でも $\text{CuS}$ は沈殿し $\text{ZnS}$ は沈殿しないことが経験的に知られています。 これは、$K_{\text{sp}}$ に12桁もの差があるため、厳密な境界条件よりもかなり余裕を持った条件で選択的沈殿が達成できることを意味しています。
$0.50 \; \text{mol/L}$ の酢酸と $0.50 \; \text{mol/L}$ の酢酸ナトリウムからなる緩衝液 $1.0 \; \text{L}$ に、$0.010 \; \text{mol}$ の $\text{HCl}$ を加えたときのpH変化を計算します。 酢酸の $\text{p}K_a = 4.74$ です。
$\text{HCl}$ 添加前:$[\text{HA}] = 0.50$、$[\text{A}^-] = 0.50 \; \text{mol/L}$ なので、
$$\text{pH} = 4.74 + \log_{10}\frac{0.50}{0.50} = 4.74$$
$\text{HCl}$ 添加後:$\text{HCl}$ の $\text{H}^+$($0.010 \; \text{mol}$)は $\text{A}^-$ と反応して $\text{HA}$ に変換します。
$$\text{H}^+ + \text{CH}_3\text{COO}^- \to \text{CH}_3\text{COOH}$$
反応後の物質量は次の通りです。
$$\text{pH} = 4.74 + \log_{10}\frac{0.49}{0.51} = 4.74 + \log_{10}(0.961) = 4.74 + (-0.017) = 4.72$$
pHの変化はわずか $0.02$ です。 比較のために、純水 $1.0 \; \text{L}$ に $0.010 \; \text{mol}$ の $\text{HCl}$ を加えると $\text{pH} = -\log(0.010) = 2.0$ となり、pH 7.0 から 2.0 へと 5.0 も変化します。 緩衝液の効果は圧倒的です。
この計算でも、やっていることは「$K_a$ の平衡式と物質収支・電荷収支を連立させる」ことに他なりません。 ヘンダーソン・ハッセルバルヒの式は、その連立の結果を使いやすい形にまとめたものです。
Q1. $\text{AgCl}$ の飽和溶液(純水中)に $\text{NaCl}$ を加えると、$\text{AgCl}$ の溶解度はどうなりますか。その理由を $K_{\text{sp}}$ の式を使って説明してください。
Q2. ヘンダーソン・ハッセルバルヒの式において、弱酸の濃度と共役塩基の濃度が等しいとき、pHはいくらになりますか。
Q3. イオン積 $Q$ が $K_{\text{sp}}$ より大きいとき、系はどのように変化しますか。
Q4. 選択的沈殿において、$K_{\text{sp}}$ の差が大きいほど選択性が高くなるのはなぜですか。
$\text{BaSO}_4$ の溶解度積は $K_{\text{sp}} = 1.1 \times 10^{-10}$($25 \; {}^\circ\text{C}$)です。
(a) 純水中での $\text{BaSO}_4$ の溶解度(mol/L)を求めてください。
(b) $0.050 \; \text{mol/L}$ の $\text{Na}_2\text{SO}_4$ 水溶液中での $\text{BaSO}_4$ の溶解度を求めてください。
(a) $K_{\text{sp}} = [\text{Ba}^{2+}][\text{SO}_4^{2-}] = s^2$ より、
$$s = \sqrt{1.1 \times 10^{-10}} = 1.0 \times 10^{-5} \; \text{mol/L}$$
(b) $[\text{SO}_4^{2-}] = 0.050 + s' \approx 0.050$($s' \ll 0.050$)とすると、
$$K_{\text{sp}} = s' \times 0.050$$
$$s' = \frac{1.1 \times 10^{-10}}{0.050} = 2.2 \times 10^{-9} \; \text{mol/L}$$
$\text{Na}_2\text{SO}_4$ の添加(共通イオン $\text{SO}_4^{2-}$ の供給)により、$\text{BaSO}_4$ の溶解度は $1.0 \times 10^{-5}$ から $2.2 \times 10^{-9} \; \text{mol/L}$ へと、約4500分の1に減少しました。これは共通イオン効果の定量的な結果です。
アンモニア水($K_b = 1.8 \times 10^{-5}$、$\text{p}K_b = 4.74$)$0.20 \; \text{mol/L}$ と塩化アンモニウム $0.30 \; \text{mol/L}$ からなる緩衝液のpHを求めてください。 $K_w = 1.0 \times 10^{-14}$ とします。
アンモニアの共役酸 $\text{NH}_4^+$ について考えます。$K_a(\text{NH}_4^+) = K_w / K_b$ です。
$$K_a = \frac{1.0 \times 10^{-14}}{1.8 \times 10^{-5}} = 5.6 \times 10^{-10}$$
$$\text{p}K_a = -\log(5.6 \times 10^{-10}) = 9.25$$
この系では、$\text{NH}_4^+$(弱酸、濃度 $0.30 \; \text{mol/L}$)と $\text{NH}_3$(共役塩基、濃度 $0.20 \; \text{mol/L}$)の緩衝液と見なせます。
$$\text{pH} = \text{p}K_a + \log_{10}\frac{[\text{NH}_3]}{[\text{NH}_4^+]} = 9.25 + \log_{10}\frac{0.20}{0.30}$$
$$= 9.25 + \log_{10}(0.667) = 9.25 + (-0.18) = 9.07$$
塩基性の緩衝液の場合も、ヘンダーソン・ハッセルバルヒの式をそのまま使えます。ポイントは、$\text{NH}_4^+/\text{NH}_3$ の酸塩基対として考え、$K_a(\text{NH}_4^+)$ を $K_w/K_b$ から求めることです。pHが $\text{p}K_a = 9.25$ の近くになることを確認してください。
$0.020 \; \text{mol/L}$ の $\text{Ag}^+$ を含む溶液に $\text{NaCl}$ を加えていきます。 $\text{AgCl}$ の沈殿が始まるのは $[\text{Cl}^-]$ がいくらのときですか。 また、$[\text{Ag}^+]$ が初期濃度の $0.1\%$ まで減少するために必要な $[\text{Cl}^-]$ はいくらですか。 $K_{\text{sp}}(\text{AgCl}) = 1.8 \times 10^{-10}$ とします。
沈殿が始まる条件:$Q = [\text{Ag}^+][\text{Cl}^-] = K_{\text{sp}}$ のとき、
$$[\text{Cl}^-] = \frac{K_{\text{sp}}}{[\text{Ag}^+]} = \frac{1.8 \times 10^{-10}}{0.020} = 9.0 \times 10^{-9} \; \text{mol/L}$$
$[\text{Ag}^+]$ が $0.1\%$ まで減少する条件:$[\text{Ag}^+] = 0.020 \times 0.001 = 2.0 \times 10^{-5} \; \text{mol/L}$ のとき、
$$[\text{Cl}^-] = \frac{1.8 \times 10^{-10}}{2.0 \times 10^{-5}} = 9.0 \times 10^{-6} \; \text{mol/L}$$
$\text{Ag}^+$ を $99.9\%$ 除去するためには、$[\text{Cl}^-]$ を $9.0 \times 10^{-6} \; \text{mol/L}$ にすれば十分です。これは非常に低い濃度であり、わずかな $\text{NaCl}$ の添加で $\text{Ag}^+$ をほぼ完全に沈殿させられることがわかります。$K_{\text{sp}}$ が非常に小さい($\text{AgCl}$ が非常に難溶性である)ことの定量的な帰結です。
$\text{Mg}^{2+}$($0.010 \; \text{mol/L}$)と $\text{Ca}^{2+}$($0.010 \; \text{mol/L}$)を含む溶液がある。 $\text{NaOH}$ を加えて $\text{OH}^-$ 濃度を徐々に上げていくことで、一方の金属イオンだけを水酸化物として選択的に沈殿させたい。
(a) 各水酸化物が沈殿し始める $[\text{OH}^-]$ を求めてください。$K_{\text{sp}}(\text{Mg(OH)}_2) = 5.6 \times 10^{-12}$、$K_{\text{sp}}(\text{Ca(OH)}_2) = 4.7 \times 10^{-6}$ とします。
(b) $\text{Ca(OH)}_2$ の沈殿が始まるとき、溶液中に残っている $[\text{Mg}^{2+}]$ を求め、選択的沈殿の実用性を評価してください。
(c) この結果から、「平衡定数を連立させる」方法論の有用性を、具体的な数値を挙げて論じてください。
(a) $\text{Mg(OH)}_2$ の沈殿が始まる条件:$[\text{Mg}^{2+}][\text{OH}^-]^2 = K_{\text{sp}}$ より、
$$[\text{OH}^-] = \sqrt{\frac{K_{\text{sp}}(\text{Mg(OH)}_2)}{[\text{Mg}^{2+}]}} = \sqrt{\frac{5.6 \times 10^{-12}}{0.010}} = \sqrt{5.6 \times 10^{-10}} = 2.4 \times 10^{-5} \; \text{mol/L}$$
$\text{Ca(OH)}_2$ の沈殿が始まる条件:
$$[\text{OH}^-] = \sqrt{\frac{K_{\text{sp}}(\text{Ca(OH)}_2)}{[\text{Ca}^{2+}]}} = \sqrt{\frac{4.7 \times 10^{-6}}{0.010}} = \sqrt{4.7 \times 10^{-4}} = 0.022 \; \text{mol/L}$$
$\text{Mg(OH)}_2$ が先に沈殿し始めます($K_{\text{sp}}$ が小さいため)。
(b) $\text{Ca(OH)}_2$ が沈殿し始める $[\text{OH}^-] = 0.022 \; \text{mol/L}$ のとき、
$$[\text{Mg}^{2+}] = \frac{K_{\text{sp}}(\text{Mg(OH)}_2)}{[\text{OH}^-]^2} = \frac{5.6 \times 10^{-12}}{(0.022)^2} = \frac{5.6 \times 10^{-12}}{4.8 \times 10^{-4}} = 1.2 \times 10^{-8} \; \text{mol/L}$$
初期濃度 $0.010 \; \text{mol/L}$ に対して $1.2 \times 10^{-8} \; \text{mol/L}$ なので、$\text{Mg}^{2+}$ の $99.9999\%$ 以上が沈殿しています。選択的沈殿は十分に実用的です。
(c) $K_{\text{sp}}$ の比は $5.6 \times 10^{-12} / 4.7 \times 10^{-6} \approx 10^{-6}$ であり、6桁の差があります。この差のおかげで、$\text{Ca(OH)}_2$ が沈殿し始める前に $\text{Mg}^{2+}$ をほぼ完全に除去できます。2つの溶解平衡と共通イオン $\text{OH}^-$ の濃度を連立させるだけで、選択的沈殿の可否と精度を定量的に予測できます。定性的に「$\text{Mg(OH)}_2$ のほうが溶けにくいから先に沈殿する」というだけでなく、「$\text{Ca(OH)}_2$ が沈殿し始めるとき $\text{Mg}^{2+}$ は $1.2 \times 10^{-8} \; \text{mol/L}$ しか残らない」という具体的な数値まで計算できる点に、平衡定数の連立という方法論の有用性があります。