高校化学では、金属イオンの系統分析(定性分析)を「HCl → H$_2$S(酸性)→ NaOH → (NH$_4$)$_2$CO$_3$」という試薬の添加順序として暗記します。
各ステップでどのイオンが沈殿するかは表にまとめられ、覚えるべき知識として扱われます。
しかし、この手順は恣意的なものではありません。
各試薬を加える順序は、溶解度積 $K_{\text{sp}}$ の大小関係によって論理的に決まっています。
$K_{\text{sp}}$ が極めて小さい塩化物は最初に沈殿し、$K_{\text{sp}}$ がやや大きい硫化物は酸性条件で $[\text{S}^{2-}]$ を抑えることで選択的に沈殿させます。
さらに、沈殿の再溶解にはルイス酸塩基の概念が関わっています。
この記事では、系統分析の全ステップを $K_{\text{sp}}$ の定量的な大小関係から論理的に説明します。
高校化学では、未知の水溶液に含まれる金属イオンを特定するために、系統分析(陽イオンの系統的分離)という手順を学びます。 試薬を決まった順序で加え、各段階で沈殿するイオンを分離していく方法です。
| 操作 | 加える試薬 | 沈殿するイオン(族) | 沈殿物の例 |
|---|---|---|---|
| 1 | 希塩酸 HCl | 第1族 | AgCl, PbCl$_2$ |
| 2 | H$_2$S(酸性条件) | 第2族 | CuS, PbS, CdS |
| 3 | NaOH(少量)+ H$_2$S | 第3族 | Fe(OH)$_3$, Al(OH)$_3$, ZnS, NiS |
| 4 | (NH$_4$)$_2$CO$_3$ | 第4族 | CaCO$_3$, BaCO$_3$ |
| 5 | (残液) | 第5族 | Na$^+$, K$^+$(沈殿しない) |
高校ではこの表を暗記し、「HClを加えるとAg$^+$が沈殿する」「酸性条件でH$_2$Sを通じるとCu$^{2+}$が沈殿する」といった事実を覚えます。 さらに、沈殿の確認操作として、「AgClにアンモニア水を加えると溶ける」「Al(OH)$_3$にNaOHを過剰に加えると溶ける」なども覚えます。
しかし、この手順にはいくつかの疑問が残ります。 なぜHClを最初に加えるのか。なぜH$_2$Sは酸性条件と塩基性条件で分けて使うのか。なぜAgClはアンモニア水で溶けるのか。 高校の範囲ではこれらの「なぜ」に定量的に答えることが難しく、個々の事実を個別に覚えるしかありません。
次のセクションでは、溶解度積 $K_{\text{sp}}$ という一つの量を使うことで、これらの疑問にすべて答えられることを確認します。
系統分析の各ステップを決めているのは、各塩の溶解度積 $K_{\text{sp}}$ の大小関係です。 $K_{\text{sp}}$ が極めて小さい塩(溶けにくい塩)ほど、わずかな試薬の添加で沈殿が生じます。 逆に $K_{\text{sp}}$ がやや大きい塩は、試薬の濃度を十分に上げないと沈殿しません。 この大小関係を利用して、段階的にイオンを分離するのが系統分析の論理です。
この記事を読み終えると、以下のことができるようになります。
1. 各族の沈殿が生じる条件を $K_{\text{sp}}$ と溶液中のイオン濃度から定量的に説明できる
2. 酸性条件と塩基性条件で H$_2$S による沈殿が異なる理由を、$[\text{S}^{2-}]$ の制御という観点から説明できる
3. AgCl が NH$_3$ 水で溶ける現象と Al(OH)$_3$ が NaOH で溶ける現象を、ルイス酸塩基と溶解平衡の移動で統一的に説明できる
4. $K_{\text{sp}}$ の値と試薬の濃度から、特定のイオンが沈殿するかどうかを計算で判定できる
これらの判定には、溶解度積 $K_{\text{sp}}$ の概念と酸塩基平衡の理解が必要です。 次のセクションで、この記事で使う道具を確認します。
難溶性塩の溶解平衡と溶解度積 $K_{\text{sp}}$ については 📖 C-10-2 複雑な平衡系 で詳しく解説しています。ここでは要点を確認します。
難溶性塩 $\text{M}_a\text{X}_b$ が水に溶解するとき、次の平衡が成立します。
$$\text{M}_a\text{X}_b \; (\text{s}) \rightleftharpoons a\text{M}^{n+} \; (\text{aq}) + b\text{X}^{m-} \; (\text{aq})$$
この平衡に対する平衡定数が溶解度積 $K_{\text{sp}}$ です。
$$K_{\text{sp}} = [\text{M}^{n+}]^a [\text{X}^{m-}]^b$$
沈殿が生じるかどうかは、イオン積 $Q$(実際の溶液中のイオン濃度の積)と $K_{\text{sp}}$ の大小関係で決まります。
$K_{\text{sp}}$ が小さいほど、わずかなイオン濃度でも $Q > K_{\text{sp}}$ の条件を満たすため、沈殿しやすくなります。 系統分析はこの原理を利用しています。各段階で加える試薬は、$K_{\text{sp}}$ が十分に小さい塩だけが沈殿するように設計されています。
錯イオンの形成による沈殿の再溶解を理解するには、ルイス酸塩基の概念が必要です。 この概念は 📖 C-4-1 ルイスの酸塩基 で詳しく解説しています。要点を確認します。
ルイス酸とは電子対を受け取る化学種、ルイス塩基とは電子対を供与する化学種です。 金属イオン(例:Ag$^+$, Cu$^{2+}$, Al$^{3+}$)は空の軌道を持つためルイス酸として働き、 NH$_3$ や OH$^-$ など孤立電子対を持つ分子・イオンはルイス塩基として働きます。
ルイス塩基が金属イオンに配位すると、錯イオンが形成されます。 錯イオンの生成定数(安定度定数)$K_f$ が大きいほど、金属イオンは錯イオンとして安定に存在します。 このとき、溶液中の遊離の金属イオン濃度 $[\text{M}^{n+}]$ が大幅に低下するため、$Q < K_{\text{sp}}$ となって沈殿が溶解します。
ここまでで、系統分析を理解するための2つの道具 ── $K_{\text{sp}}$ による沈殿判定と、ルイス酸塩基による錯イオン形成 ── が揃いました。 次のセクションから、この道具を使って系統分析の各ステップを論理的に説明していきます。
系統分析の最初のステップでは、希塩酸(HCl)を加えます。 このとき沈殿するのは、塩化物の $K_{\text{sp}}$ が極めて小さい金属イオンだけです。
| 塩化物 | $K_{\text{sp}}$ | 沈殿するか |
|---|---|---|
| AgCl | $1.8 \times 10^{-10}$ | 沈殿する(第1族) |
| PbCl$_2$ | $1.7 \times 10^{-5}$ | 沈殿する(第1族) |
| CuCl$_2$ | 可溶性 | 沈殿しない |
| FeCl$_3$ | 可溶性 | 沈殿しない |
| CaCl$_2$ | 可溶性 | 沈殿しない |
| NaCl | 可溶性 | 沈殿しない |
ほとんどの金属塩化物は水に溶けやすく(可溶性)、$K_{\text{sp}}$ の概念を持ち出すまでもありません。 AgCl や PbCl$_2$ だけが難溶性であり、Cl$^-$ を加えるとすぐに $Q > K_{\text{sp}}$ を満たして沈殿します。 これが「HCl を最初に加える」理由です。塩化物が難溶性であるイオンはごく少数なので、最初のステップでこれらを効率よく除去できます。
具体的に計算してみます。HCl を加えて $[\text{Cl}^-] = 0.1 \; \text{mol/L}$ にした場合、AgCl が沈殿するためには次の条件が必要です。
$$Q = [\text{Ag}^+][\text{Cl}^-] > K_{\text{sp}}(\text{AgCl})$$
$$[\text{Ag}^+] \times 0.1 > 1.8 \times 10^{-10}$$
$$[\text{Ag}^+] > 1.8 \times 10^{-9} \; \text{mol/L}$$
つまり、Ag$^+$ が $1.8 \times 10^{-9}$ mol/L(約 0.0002 mg/L)よりわずかでも多ければ沈殿が生じます。 通常の分析で扱う濃度(0.01 mol/L 程度)では確実に沈殿します。
第1族を分離した後の溶液に、酸性条件下で H$_2$S を通じます。 ここで沈殿するのは、硫化物の $K_{\text{sp}}$ が極めて小さい金属イオンです。
なぜ「酸性条件」が重要なのでしょうか。これは H$_2$S の電離平衡と $[\text{S}^{2-}]$ の制御に関わっています。
H$_2$S は弱酸であり、2段階で電離します。
$$\text{H}_2\text{S} \rightleftharpoons \text{H}^+ + \text{HS}^- \quad K_{a1} \approx 1.0 \times 10^{-7}$$
$$\text{HS}^- \rightleftharpoons \text{H}^+ + \text{S}^{2-} \quad K_{a2} \approx 1.3 \times 10^{-13}$$
2段階を合わせた全体の電離定数は $K_{a1} \times K_{a2} \approx 1.3 \times 10^{-20}$ です。 H$_2$S の飽和水溶液の濃度はおよそ $0.1$ mol/L なので、次の関係が成り立ちます。
$$[\text{S}^{2-}] = \frac{K_{a1} K_{a2} [\text{H}_2\text{S}]}{[\text{H}^+]^2}$$
$[\text{H}_2\text{S}]$:H$_2$S の初濃度(飽和で約 0.1 mol/L)、$[\text{H}^+]$:水素イオン濃度(mol/L)。 2つの電離平衡式を組み合わせることで得られます。
この式から、$[\text{H}^+]$ を大きくする(酸性にする)と $[\text{S}^{2-}]$ が小さくなることがわかります。 酸性条件では H$^+$ が H$_2$S の電離を抑制するため(ルシャトリエの原理)、$[\text{S}^{2-}]$ が極めて小さくなります。 これが第2族と第3族を分ける鍵です。
酸性条件($[\text{H}^+] = 0.3$ mol/L、pH $\approx 0.5$)での $[\text{S}^{2-}]$ を計算してみます。
$$[\text{S}^{2-}] = \frac{1.3 \times 10^{-20} \times 0.1}{(0.3)^2} = \frac{1.3 \times 10^{-21}}{0.09} \approx 1.4 \times 10^{-20} \; \text{mol/L}$$
この極めて小さい $[\text{S}^{2-}]$ でも沈殿する金属硫化物は、$K_{\text{sp}}$ が極端に小さいものだけです。
| 硫化物 | $K_{\text{sp}}$ | 沈殿に必要な $[\text{M}^{2+}]$ | 酸性で沈殿するか |
|---|---|---|---|
| CuS | $6 \times 10^{-37}$ | $4 \times 10^{-17}$ mol/L | 沈殿する(第2族) |
| CdS | $8 \times 10^{-28}$ | $6 \times 10^{-8}$ mol/L | 沈殿する(第2族) |
| PbS | $3 \times 10^{-28}$ | $2 \times 10^{-8}$ mol/L | 沈殿する(第2族) |
| ZnS | $2 \times 10^{-25}$ | $1 \times 10^{-5}$ mol/L | 沈殿しにくい |
| NiS | $3 \times 10^{-20}$ | $2$ mol/L | 沈殿しない |
| FeS | $6 \times 10^{-19}$ | $40$ mol/L | 沈殿しない |
上表の「沈殿に必要な $[\text{M}^{2+}]$」は、$[\text{M}^{2+}] \times [\text{S}^{2-}] > K_{\text{sp}}$ を満たす条件から計算したものです。 酸性条件で $[\text{S}^{2-}] \approx 10^{-20}$ mol/L のとき、CuS($K_{\text{sp}} = 6 \times 10^{-37}$)は $[\text{Cu}^{2+}] > 4 \times 10^{-17}$ mol/L で沈殿します。 通常の分析濃度(0.01 mol/L 程度)では余裕で沈殿します。
一方、FeS($K_{\text{sp}} = 6 \times 10^{-19}$)は $[\text{Fe}^{2+}] > 40$ mol/L でなければ沈殿しません。 これは現実の溶液では達成不可能な濃度であり、したがって酸性条件では FeS は沈殿しません。
酸性条件で H$_2$S を通じると、H$^+$ の共通イオン効果により $[\text{S}^{2-}]$ は $10^{-20}$ mol/L 程度に抑えられます。
この小さな $[\text{S}^{2-}]$ でも $Q > K_{\text{sp}}$ を満たすのは、$K_{\text{sp}}$ が $10^{-25}$ 以下の硫化物(CuS, CdS, PbS など)だけです。
$K_{\text{sp}}$ が $10^{-20}$ 程度の硫化物(FeS, NiS, ZnS)は酸性条件では沈殿せず、後のステップに残ります。
つまり、酸性条件は $[\text{S}^{2-}]$ を制御する「フィルター」の役割を果たしており、$K_{\text{sp}}$ の桁が大きく異なる硫化物を選択的に分離できます。
ここまでで、第1族(塩化物の $K_{\text{sp}}$ が極端に小さい Ag$^+$, Pb$^{2+}$)と 第2族(硫化物の $K_{\text{sp}}$ が極端に小さい Cu$^{2+}$, Cd$^{2+}$, Pb$^{2+}$)が分離される論理を確認しました。 残った溶液中には、$K_{\text{sp}}$ がやや大きい硫化物を作る金属イオン(Fe$^{2+}$, Ni$^{2+}$, Zn$^{2+}$)と、硫化物がそもそも沈殿しにくい金属イオン(Al$^{3+}$, Ca$^{2+}$, Na$^+$ など)が含まれています。 次のセクションでは、これらを分離する第3族・第4族の操作を説明します。
第2族を分離した後の溶液を塩基性にし、再び H$_2$S を通じます。 塩基性条件では何が変わるのでしょうか。セクション4の式をもう一度使います。
$$[\text{S}^{2-}] = \frac{K_{a1} K_{a2} [\text{H}_2\text{S}]}{[\text{H}^+]^2}$$
塩基性条件(pH $= 9$、つまり $[\text{H}^+] = 10^{-9}$ mol/L)での $[\text{S}^{2-}]$ を計算します。
$$[\text{S}^{2-}] = \frac{1.3 \times 10^{-20} \times 0.1}{(10^{-9})^2} = \frac{1.3 \times 10^{-21}}{10^{-18}} \approx 1.3 \times 10^{-3} \; \text{mol/L}$$
酸性条件での $[\text{S}^{2-}] \approx 10^{-20}$ mol/L に比べて、$10^{17}$ 倍も大きくなっています。 この大きな $[\text{S}^{2-}]$ のもとでは、$K_{\text{sp}}$ がやや大きい硫化物でも $Q > K_{\text{sp}}$ を満たして沈殿します。
例えば ZnS($K_{\text{sp}} = 2 \times 10^{-25}$)の場合、沈殿に必要な $[\text{Zn}^{2+}]$ は次の通りです。
$$[\text{Zn}^{2+}] > \frac{K_{\text{sp}}}{[\text{S}^{2-}]} = \frac{2 \times 10^{-25}}{1.3 \times 10^{-3}} \approx 2 \times 10^{-22} \; \text{mol/L}$$
事実上どんな微量の Zn$^{2+}$ でも沈殿します。 同様に NiS や FeS も塩基性条件では沈殿します。
また、Fe$^{3+}$ や Al$^{3+}$ は水酸化物として沈殿します。 NaOH を加えて塩基性にすると、Fe(OH)$_3$($K_{\text{sp}} = 2.8 \times 10^{-39}$)や Al(OH)$_3$($K_{\text{sp}} = 3.0 \times 10^{-34}$)が沈殿します。 これらの $K_{\text{sp}}$ は極めて小さいため、弱塩基性でも容易に沈殿が生じます。
誤った理解:第3族の硫化物(ZnS, NiS, FeS)は「溶けやすい」から酸性条件で沈殿しない。
正しい理解:これらの $K_{\text{sp}}$ は $10^{-25}$ ~ $10^{-19}$ と、日常的な感覚では極めて小さい値です。「溶けやすい」のではなく、酸性条件で $[\text{S}^{2-}]$ が極端に小さく制御されているため、$Q > K_{\text{sp}}$ を満たせないだけです。塩基性にして $[\text{S}^{2-}]$ を上げれば、問題なく沈殿します。
第3族の沈殿には Fe(OH)$_3$、Al(OH)$_3$、ZnS などが含まれます。 これらをさらに分離するために、錯イオン形成による再溶解が利用されます。 ここでセクション3で確認したルイス酸塩基の概念が活躍します。
代表的な例を2つ見てみます。
AgCl の NH$_3$ 水による溶解(第1族の確認操作)
AgCl は水にほとんど溶けませんが、アンモニア水を加えると溶解します。 これは、NH$_3$(ルイス塩基)が Ag$^+$(ルイス酸)に配位して錯イオン $[\text{Ag(NH}_3\text{)}_2]^+$ を形成するためです。
$$\text{AgCl} \; (\text{s}) \rightleftharpoons \text{Ag}^+ + \text{Cl}^- \quad K_{\text{sp}} = 1.8 \times 10^{-10}$$
$$\text{Ag}^+ + 2\text{NH}_3 \rightleftharpoons [\text{Ag(NH}_3\text{)}_2]^+ \quad K_f = 1.7 \times 10^7$$
錯イオンが形成されると、溶液中の遊離 Ag$^+$ 濃度が大幅に低下します。 すると $Q = [\text{Ag}^+][\text{Cl}^-] < K_{\text{sp}}$ となり、AgCl の溶解平衡が右に移動して沈殿が溶解します。 全体の反応は次のようになります。
$$\text{AgCl} \; (\text{s}) + 2\text{NH}_3 \rightleftharpoons [\text{Ag(NH}_3\text{)}_2]^+ + \text{Cl}^-$$
この全体の平衡定数は $K = K_{\text{sp}} \times K_f = 1.8 \times 10^{-10} \times 1.7 \times 10^7 = 3.1 \times 10^{-3}$ です。 NH$_3$ の濃度が十分に大きければ(通常 2 mol/L 程度のアンモニア水を使用)、この反応は右に進んで AgCl が溶解します。
Al(OH)$_3$ の過剰 NaOH による溶解
Al(OH)$_3$ は両性水酸化物であり、過剰の NaOH を加えると溶解します。 これも、OH$^-$(ルイス塩基)が Al$^{3+}$(ルイス酸)に配位して錯イオン $[\text{Al(OH)}_4]^-$ を形成する反応です。
$$\text{Al(OH)}_3 \; (\text{s}) + \text{OH}^- \rightleftharpoons [\text{Al(OH)}_4]^-$$
Al$^{3+}$ は小さなイオン半径(0.054 nm)に対して +3 の大きな電荷を持つため、電荷密度が高く、強いルイス酸として働きます。 このため OH$^-$ を 4 個まで配位させ、安定な錯イオン $[\text{Al(OH)}_4]^-$(テトラヒドロキシドアルミン酸イオン)を形成します。
一方、Fe(OH)$_3$ は NaOH を加えても溶解しません。 Fe$^{3+}$ もルイス酸ですが、Al$^{3+}$ に比べてイオン半径が大きく(0.065 nm)、OH$^-$ との親和性が相対的に低いため、 安定な $[\text{Fe(OH)}_4]^-$ 錯イオンは形成されにくいのです。 この違いにより、NaOH 過剰の条件で Al(OH)$_3$ と Fe(OH)$_3$ を分離できます。
一見無関係に見える「AgCl + NH$_3$ → 溶解」と「Al(OH)$_3$ + NaOH → 溶解」は、同じ原理で説明できます。
ルイス塩基(NH$_3$ や OH$^-$)がルイス酸(金属イオン)に配位して錯イオンを形成し、遊離の金属イオン濃度を下げる。 その結果 $Q < K_{\text{sp}}$ となり、溶解平衡が右に移動して沈殿が溶解する。
再溶解が起こるかどうかは、$K_{\text{sp}} \times K_f$ の値(全体の平衡定数)で決まります。 この値が十分に大きければ再溶解し、小さければ再溶解しません。
第3族を分離した後の溶液に (NH$_4$)$_2$CO$_3$ を加えると、Ca$^{2+}$ や Ba$^{2+}$ が炭酸塩として沈殿します。
$$\text{Ca}^{2+} + \text{CO}_3^{2-} \rightleftharpoons \text{CaCO}_3 \; (\text{s}) \quad K_{\text{sp}} = 3.4 \times 10^{-9}$$
$$\text{Ba}^{2+} + \text{CO}_3^{2-} \rightleftharpoons \text{BaCO}_3 \; (\text{s}) \quad K_{\text{sp}} = 2.6 \times 10^{-9}$$
これらの $K_{\text{sp}}$ は $10^{-9}$ 程度であり、AgCl($10^{-10}$)や CuS($10^{-37}$)に比べるとずっと大きい値です。 そのため、最初の段階(HCl 添加)ではもちろん沈殿しませんし、H$_2$S によっても沈殿しません。 CO$_3^{2-}$ を直接加えることで初めて $Q > K_{\text{sp}}$ を達成できます。
なお、Na$^+$ や K$^+$ は一般的な陰イオンとの塩がすべて可溶性であるため、いずれの段階でも沈殿せず、最終的に溶液中に残ります(第5族)。 これらは炎色反応で検出します。
ここまでの議論を整理すると、系統分析の手順は次のような論理で構成されています。
| 族 | 操作 | 分離の原理 | $K_{\text{sp}}$ のオーダー |
|---|---|---|---|
| 第1族 | HCl 添加 | 塩化物の $K_{\text{sp}}$ が極端に小さいイオンだけ沈殿 | $10^{-10}$ ~ $10^{-5}$ |
| 第2族 | H$_2$S(酸性) | 酸性で $[\text{S}^{2-}] \approx 10^{-20}$ に制御 → $K_{\text{sp}} \ll 10^{-20}$ の硫化物だけ沈殿 | $10^{-37}$ ~ $10^{-25}$ |
| 第3族 | NaOH + H$_2$S(塩基性) | 塩基性で $[\text{S}^{2-}] \approx 10^{-3}$ に上昇 → $K_{\text{sp}} \lesssim 10^{-19}$ の硫化物・水酸化物が沈殿 | $10^{-39}$ ~ $10^{-19}$ |
| 第4族 | (NH$_4$)$_2$CO$_3$ | $[\text{CO}_3^{2-}]$ を直接供給 → 炭酸塩が沈殿 | $10^{-9}$ |
| 第5族 | (残液) | 沈殿しない(可溶性塩のみ) | ─ |
$K_{\text{sp}}$ が小さい塩を作るイオンから順に除去し、残った溶液中の $K_{\text{sp}}$ がやや大きい塩について、 試薬の濃度($[\text{S}^{2-}]$ や $[\text{CO}_3^{2-}]$)を調整して沈殿させていく。 これが系統分析の論理的な骨格です。
Cu$^{2+}$ と Zn$^{2+}$ がともに 0.010 mol/L で含まれる溶液に、酸性条件で H$_2$S を通じます。 CuS は沈殿し ZnS は沈殿しないことを、$K_{\text{sp}}$ の値から確認します。
酸性条件(pH $= 0.5$、$[\text{H}^+] = 0.3$ mol/L)で $[\text{S}^{2-}] = 1.4 \times 10^{-20}$ mol/L とします(セクション4の計算結果)。
CuS について:
$$Q = [\text{Cu}^{2+}][\text{S}^{2-}] = 0.010 \times 1.4 \times 10^{-20} = 1.4 \times 10^{-22}$$
$$K_{\text{sp}}(\text{CuS}) = 6 \times 10^{-37}$$
$$Q = 1.4 \times 10^{-22} \gg K_{\text{sp}} = 6 \times 10^{-37}$$
$Q \gg K_{\text{sp}}$ なので、CuS は確実に沈殿します。
ZnS について:
$$Q = [\text{Zn}^{2+}][\text{S}^{2-}] = 0.010 \times 1.4 \times 10^{-20} = 1.4 \times 10^{-22}$$
$$K_{\text{sp}}(\text{ZnS}) = 2 \times 10^{-25}$$
$$Q = 1.4 \times 10^{-22} > K_{\text{sp}} = 2 \times 10^{-25}$$
実は $Q > K_{\text{sp}}$ を満たしており、理論上は ZnS も沈殿する計算になります。 ただし、ZnS の場合は $Q$ と $K_{\text{sp}}$ の差が CuS ほど大きくないため、実際には酸性を強く保つ($[\text{H}^+]$ をさらに大きくする)ことで $[\text{S}^{2-}]$ を下げ、ZnS の沈殿を防ぎます。 実験条件の精密な制御が分離の成否を左右することがわかります。
硫化物の $K_{\text{sp}}$ は文献によって値が異なることがあります。 特に CuS や PbS のように極端に小さい $K_{\text{sp}}$ は実験的に正確に測定するのが難しく、 文献値に数桁の差がある場合もあります。 ここでは定量的な傾向を示すために代表的な値を使用しています。 重要なのは個々の数値ではなく、$K_{\text{sp}}$ の桁が大きく異なることが系統的な分離を可能にしているという点です。
AgCl の沈殿に 2.0 mol/L のアンモニア水を加えたとき、どの程度溶解するかを計算します。
全体の反応と平衡定数は次の通りです。
$$\text{AgCl} \; (\text{s}) + 2\text{NH}_3 \rightleftharpoons [\text{Ag(NH}_3\text{)}_2]^+ + \text{Cl}^- \quad K = K_{\text{sp}} \times K_f$$
$$K = 1.8 \times 10^{-10} \times 1.7 \times 10^7 = 3.1 \times 10^{-3}$$
AgCl が $s$ mol/L 溶解したとすると、$[\text{Ag(NH}_3\text{)}_2]^+ = s$、$[\text{Cl}^-] = s$、$[\text{NH}_3] \approx 2.0 - 2s$ です。 平衡定数の式は次のようになります。
$$K = \frac{s \times s}{(2.0 - 2s)^2} = \frac{s^2}{(2.0 - 2s)^2} = 3.1 \times 10^{-3}$$
両辺の平方根をとると、
$$\frac{s}{2.0 - 2s} = \sqrt{3.1 \times 10^{-3}} = 0.056$$
$$s = 0.056 \times (2.0 - 2s) = 0.112 - 0.112s$$
$$1.112s = 0.112$$
$$s = 0.10 \; \text{mol/L}$$
2.0 mol/L のアンモニア水を使うと、AgCl は約 0.10 mol/L まで溶解します。 AgCl は水にはほとんど溶けません(純水中の溶解度は $\sqrt{K_{\text{sp}}} = \sqrt{1.8 \times 10^{-10}} = 1.3 \times 10^{-5}$ mol/L)が、 NH$_3$ の存在により約 8000 倍も多く溶解するのです。 これが錯イオン形成の力です。
Fe$^{3+}$ が 0.010 mol/L の溶液において、Fe(OH)$_3$ が沈殿し始める pH を求めます。
$$K_{\text{sp}}(\text{Fe(OH)}_3) = [\text{Fe}^{3+}][\text{OH}^-]^3 = 2.8 \times 10^{-39}$$
沈殿が始まる条件は $Q = K_{\text{sp}}$ です。
$$0.010 \times [\text{OH}^-]^3 = 2.8 \times 10^{-39}$$
$$[\text{OH}^-]^3 = 2.8 \times 10^{-37}$$
$$[\text{OH}^-] = (2.8 \times 10^{-37})^{1/3} = 6.5 \times 10^{-13} \; \text{mol/L}$$
$$\text{pOH} = -\log(6.5 \times 10^{-13}) = 12.2$$
$$\text{pH} = 14.0 - 12.2 = 1.8$$
Fe$^{3+}$ は pH 1.8 という非常に低い pH で既に水酸化物の沈殿が始まります。 これは Fe(OH)$_3$ の $K_{\text{sp}}$ が $10^{-39}$ と極めて小さいためです。 一方、Mg(OH)$_2$($K_{\text{sp}} = 5.6 \times 10^{-12}$)は pH 9 程度まで沈殿しません。 この差が、第3族と第4族を分ける根拠の一つになっています。
Q1. 系統分析で HCl を最初に加える理由を、$K_{\text{sp}}$ の観点から説明してください。
Q2. 酸性条件で H$_2$S を通じたとき、CuS は沈殿するのに FeS は沈殿しない理由を、$[\text{S}^{2-}]$ と $K_{\text{sp}}$ を使って説明してください。
Q3. AgCl がアンモニア水で溶解する現象を、ルイス酸塩基の概念を使って説明してください。
Q4. 塩基性条件では $[\text{S}^{2-}]$ が酸性条件に比べて約 $10^{17}$ 倍も大きくなります。この理由を説明してください。
系統分析における第1族~第5族の分類について、以下の金属イオンがそれぞれ何族に分類されるかを答え、その根拠を $K_{\text{sp}}$ の観点から簡潔に説明してください。
(a) Ag$^+$
(b) Cu$^{2+}$
(c) Fe$^{3+}$
(d) Ca$^{2+}$
(e) Na$^+$
(a) Ag$^+$:第1族 ── AgCl の $K_{\text{sp}} = 1.8 \times 10^{-10}$ が小さいため、HCl 添加で塩化物として沈殿する。
(b) Cu$^{2+}$:第2族 ── CuS の $K_{\text{sp}} = 6 \times 10^{-37}$ が極めて小さいため、酸性条件で $[\text{S}^{2-}] \approx 10^{-20}$ mol/L でも沈殿する。
(c) Fe$^{3+}$:第3族 ── Fe(OH)$_3$ の $K_{\text{sp}} = 2.8 \times 10^{-39}$ が極めて小さく、塩基性条件で水酸化物として沈殿する。FeS の $K_{\text{sp}}$ は酸性条件では沈殿に不十分。
(d) Ca$^{2+}$:第4族 ── CaCO$_3$ の $K_{\text{sp}} = 3.4 \times 10^{-9}$ は比較的大きく、(NH$_4$)$_2$CO$_3$ を直接加えて初めて沈殿する。
(e) Na$^+$:第5族 ── Na$^+$ は一般的な陰イオンとの塩がすべて可溶性であり、いずれの段階でも沈殿しない。
Pb$^{2+}$ が 0.010 mol/L で含まれる溶液に、HCl を加えて $[\text{Cl}^-] = 0.10$ mol/L にしました。 PbCl$_2$ の $K_{\text{sp}} = 1.7 \times 10^{-5}$ として、以下に答えてください。
(a) この条件で PbCl$_2$ は沈殿するかどうか、イオン積 $Q$ を計算して判定してください。
(b) PbCl$_2$ が沈殿しないようにするには、$[\text{Cl}^-]$ を何 mol/L 以下にすればよいですか。
(a)
$$Q = [\text{Pb}^{2+}][\text{Cl}^-]^2 = 0.010 \times (0.10)^2 = 1.0 \times 10^{-4}$$
$$K_{\text{sp}} = 1.7 \times 10^{-5}$$
$Q = 1.0 \times 10^{-4} > K_{\text{sp}} = 1.7 \times 10^{-5}$ なので、PbCl$_2$ は沈殿します。
(b)
$$Q = [\text{Pb}^{2+}][\text{Cl}^-]^2 \leq K_{\text{sp}}$$
$$0.010 \times [\text{Cl}^-]^2 \leq 1.7 \times 10^{-5}$$
$$[\text{Cl}^-]^2 \leq 1.7 \times 10^{-3}$$
$$[\text{Cl}^-] \leq 0.041 \; \text{mol/L}$$
$[\text{Cl}^-]$ を 0.041 mol/L 以下にすれば PbCl$_2$ は沈殿しません。
PbCl$_2$ の $K_{\text{sp}} = 1.7 \times 10^{-5}$ は AgCl($1.8 \times 10^{-10}$)に比べて 10 万倍大きい値です。このため、Pb$^{2+}$ は HCl の濃度によっては沈殿しない場合があります。実際の系統分析では、PbCl$_2$ の溶解度が温度に強く依存すること(熱水で溶解する)を利用して確認操作を行います。
Al$^{3+}$ が 0.010 mol/L で含まれる溶液について、Al(OH)$_3$ が沈殿し始める pH を求めてください。 $K_{\text{sp}}(\text{Al(OH)}_3) = 3.0 \times 10^{-34}$ とします。
$$K_{\text{sp}} = [\text{Al}^{3+}][\text{OH}^-]^3$$
沈殿が始まる条件は $Q = K_{\text{sp}}$ です。
$$0.010 \times [\text{OH}^-]^3 = 3.0 \times 10^{-34}$$
$$[\text{OH}^-]^3 = 3.0 \times 10^{-32}$$
$$[\text{OH}^-] = (3.0 \times 10^{-32})^{1/3} = 3.1 \times 10^{-11} \; \text{mol/L}$$
$$\text{pOH} = -\log(3.1 \times 10^{-11}) = 10.5$$
$$\text{pH} = 14.0 - 10.5 = 3.5$$
Al(OH)$_3$ は pH 3.5 という酸性寄りの条件で既に沈殿が始まります。これは $K_{\text{sp}} = 3.0 \times 10^{-34}$ が極めて小さいためです。系統分析の第3族では NaOH を加えて塩基性にしますが、Al(OH)$_3$ は酸性条件でもかなり沈殿しやすいことがわかります。
Ag$^+$ と Cu$^{2+}$ がともに 0.010 mol/L で含まれる溶液があります。
(a) HCl を加えて $[\text{Cl}^-] = 0.10$ mol/L にしたとき、AgCl は沈殿しますが CuCl$_2$ は沈殿しません。この違いを $K_{\text{sp}}$ の観点から説明してください。
(b) AgCl の沈殿を濾別した後、2.0 mol/L の NH$_3$ 水を加えると AgCl は溶解します。この反応の全体の平衡定数 $K$ を計算し、AgCl の溶解量を求めてください。$K_{\text{sp}}(\text{AgCl}) = 1.8 \times 10^{-10}$、$K_f([\text{Ag(NH}_3\text{)}_2]^+) = 1.7 \times 10^7$ とします。
(c) この実験結果から、系統分析において「第1族を分離した後に第2族の操作を行う」ことの利点を論述してください。
(a) AgCl の $K_{\text{sp}} = 1.8 \times 10^{-10}$ は非常に小さく、$Q = [\text{Ag}^+][\text{Cl}^-] = 0.010 \times 0.10 = 1.0 \times 10^{-3} \gg K_{\text{sp}}$ なので沈殿します。一方、CuCl$_2$ は可溶性($K_{\text{sp}}$ の概念が適用されないほど溶けやすい)であり、$Q < K_{\text{sp}}$ となるため沈殿しません。
(b)
$$K = K_{\text{sp}} \times K_f = 1.8 \times 10^{-10} \times 1.7 \times 10^7 = 3.1 \times 10^{-3}$$
セクション6の計算と同様に、AgCl が $s$ mol/L 溶解したとすると、
$$\frac{s}{2.0 - 2s} = \sqrt{3.1 \times 10^{-3}} = 0.056$$
$$s = 0.10 \; \text{mol/L}$$
(c) 第1族の操作で Ag$^+$ を AgCl として除去しておくと、第2族の H$_2$S による硫化物の沈殿操作に Ag$^+$ が混入しません。Ag$_2$S の $K_{\text{sp}}$ は極めて小さいため、Ag$^+$ が残っていると H$_2$S で Ag$_2$S が沈殿してしまい、Cu$^{2+}$ や Cd$^{2+}$ の検出を妨害します。HCl で先に Ag$^+$ を除去することで、第2族の分離が正確に行えます。