第13章 有機化合物の基礎

有機化合物の分析
─ NMR・質量分析・IR分光法

高校化学では、元素分析によって有機化合物の組成式・分子式を決定し、不飽和度や反応性から構造式を推定します。 この方法で「何の原子がいくつあるか」はわかりますが、「それらの原子がどのようにつながっているか」を一意に決めるには情報が不足することがあります。 たとえば、分子式 $\text{C}_3\text{H}_6\text{O}$ を持つ化合物は、アセトン($\text{CH}_3\text{COCH}_3$)、プロパナール($\text{CH}_3\text{CH}_2\text{CHO}$)、アリルアルコール($\text{CH}_2\text{=CHCH}_2\text{OH}$)など複数の構造異性体が存在します。

大学化学では、質量分析(MS)で分子量を精密に決定し、赤外分光法(IR)で官能基を同定し、核磁気共鳴(NMR)分光法で原子のつながり方を解読します。 高校の元素分析で「何がいくつあるか」を決めた後、これら三つの手法で「どうつながっているか」を決定する ── この二段階によって有機化合物の構造は完全に確定します。

1高校での扱い ─ 元素分析と構造推定

高校化学では、有機化合物の構造を決定するために次のような手順を踏みます。

  1. 元素分析:試料を完全燃焼させ、生じた $\text{CO}_2$ と $\text{H}_2\text{O}$ の質量から C, H の質量を求める。N を含む場合は窒素の質量も測定する。
  2. 組成式の決定:各元素の質量比から、最も簡単な整数比(組成式)を求める。
  3. 分子量の測定:気体であれば状態方程式、溶液であれば凝固点降下などから分子量を決定し、組成式を整数倍して分子式を得る。
  4. 不飽和度の計算:分子式から不飽和度を計算し、二重結合・三重結合・環構造の数の合計を見積もる。
  5. 反応性からの構造推定:銀鏡反応、ヨードホルム反応、$\text{FeCl}_3$ 呈色などの定性試験を組み合わせて、官能基を推定する。

この方法は強力であり、多くの有機化合物の構造を決定できます。 しかし、構造異性体が複数ある場合に一つに絞り込むことが難しいケースがあります。 たとえば、分子式 $\text{C}_4\text{H}_8\text{O}_2$ を持つ化合物は、酪酸、イソ酪酸、酢酸エチル、ギ酸プロピルなど多数の構造異性体があり、定性試験だけでは区別しきれない場合があります。

次のセクションでは、大学で用いられる分光法を導入することで、この「区別しきれない」問題がどのように解決されるかを見ていきます。

2大学の視点で何が変わるか ─ 分光法による構造決定

大学の有機化学では、未知の有機化合物の構造を決定するために、三つの分光法を組み合わせて使います。 それぞれが異なる種類の情報を提供し、三つを合わせることで構造を一意に確定できます。

高校 vs 大学:有機化合物の構造をどう決めるか
高校:元素分析 + 定性試験
燃焼で C, H, N の質量%を測定し、分子式を決定する。銀鏡反応やヨードホルム反応で官能基を推定する。
「何の原子がいくつあるか」がわかる。
大学:三つの分光法(MS・IR・NMR)
MS で分子量を精密決定し、IR で官能基を同定し、NMR で原子のつながりを解読する。
「原子がどうつながっているか」まで確定する。
高校:構造異性体の区別に限界がある
分子式が同じでも複数の構造異性体が考えられる場合、定性試験だけでは一意に決定できないことがある。
大学:構造を一意に確定できる
NMR のスペクトルは化合物ごとに固有であり、構造異性体を明確に区別できる。
構造決定の二段階 ── 分子式から結合の様式へ

この記事を読み終えると、以下のことができるようになります。

1. 質量分析(MS)のスペクトルから分子量を読み取り、フラグメンテーションパターンから部分構造を推定できる

2. IR スペクトルの特性吸収帯から、O-H, C=O, N-H などの官能基の有無を判定できる

3. ${}^1\text{H}$ NMR スペクトルの化学シフト・積分比・分裂パターンから、水素原子の化学的環境と結合関係を読み取れる

4. MS・IR・NMR の情報を順に使って、未知化合物の構造を一つに絞り込むことができる

三つの分光法はそれぞれ「分子量」「官能基」「原子のつながり」という異なる階層の情報を提供します。 次のセクションから、この順番で一つずつ導入していきます。

3質量分析(MS) ─ 分子量の精密決定と分子の「割れ方」

質量分析の原理

質量分析(mass spectrometry, MS)は、分子をイオン化して質量と電荷の比($m/z$)を測定する手法です。 基本的な原理は次の通りです。

  1. イオン化:試料分子に高エネルギー電子をぶつけて電子を1個はじき出し、正の分子イオン(ラジカルカチオン)$\text{M}^{+\cdot}$ をつくる。
  2. 加速・分離:生じたイオンを電場で加速し、質量と電荷の比 $m/z$ に基づいて分離する。
  3. 検出:各 $m/z$ のイオンの量を検出器で測定し、横軸に $m/z$、縦軸に相対強度をとったグラフ(マススペクトル)を得る。

イオンの電荷 $z$ はほとんどの場合 $+1$ なので、$m/z$ の値はそのままイオンの質量(実質的に分子量)に対応します。

分子イオンピーク ─ 分子量の直接的な決定

マススペクトルにおいて最も重要なのは、分子イオンピーク($\text{M}^+$ ピーク)です。 これは分子から電子が1個取り除かれただけのイオン $\text{M}^{+\cdot}$ に対応し、その $m/z$ 値が分子量を与えます。

たとえば、エタノール($\text{C}_2\text{H}_5\text{OH}$)のマススペクトルでは、$m/z = 46$ に分子イオンピークが現れます。 これは $\text{C}_2\text{H}_6\text{O}$ の分子量 $12 \times 2 + 1 \times 6 + 16 = 46$ に一致します。

高校では、分子量を凝固点降下や気体の状態方程式から間接的に求めていました。 質量分析では、分子量を直接かつ精密に(整数値だけでなく小数点以下まで)測定できます。

フラグメンテーション ─ 分子の割れ方から部分構造を読む

イオン化の際に与えられるエネルギーが大きいと、分子イオン $\text{M}^{+\cdot}$ は結合が切れてさらに小さなイオン(フラグメントイオン)に分解します。 この過程をフラグメンテーションと呼びます。

フラグメントイオンの $m/z$ 値から、「分子がどこで割れたか」を知ることができます。 たとえば、エタノールのマススペクトルでは次のようなピークが観測されます。

$m/z$ イオンの帰属 解釈
46 $\text{C}_2\text{H}_5\text{OH}^{+\cdot}$($\text{M}^+$) 分子イオン(分子量 = 46)
45 $\text{C}_2\text{H}_5\text{O}^+$ $\text{M}^+$ から H が1個取れた($46 - 1 = 45$)
31 $\text{CH}_2\text{OH}^+$ $\text{M}^+$ から $\text{CH}_3$ が取れた($46 - 15 = 31$)
29 $\text{CHO}^+$ $\text{M}^+$ から $\text{OH}$ と H が取れた

$m/z = 31$ のピークは、$\text{M}^+$ との差が $46 - 31 = 15$ であり、$\text{CH}_3$ 基(質量 15)が失われたことを示しています。 このように、分子イオンとフラグメントイオンの $m/z$ の差から、失われた部分構造の質量がわかり、分子のどの結合が切れたかを推定できます。

よく見られるフラグメントの質量(実測に基づく経験則)
失われる質量 失われたフラグメント
15 $\text{CH}_3$
17 $\text{OH}$
18 $\text{H}_2\text{O}$
28 $\text{CO}$ または $\text{C}_2\text{H}_4$
29 $\text{CHO}$ または $\text{C}_2\text{H}_5$
45 $\text{OC}_2\text{H}_5$(エトキシ基)

これらの値は、多数の化合物のマススペクトルを実験的に蓄積した結果から得られた経験則です。 分子イオンの $m/z$ からこれらの値を引くことで、フラグメントイオンの $m/z$ を予測し、構造の候補を絞り込みます。

ここまでで、質量分析によって「分子量」と「分子がどこで割れるか」という情報が得られることを確認しました。 次に、IR 分光法を使って「どんな官能基が含まれているか」を特定する方法を見ていきます。

4赤外分光法(IR) ─ 結合の振動から官能基を読む

IR 分光法の原理

分子中の原子間の結合は、ばねのように伸び縮みしたり、曲がったりする振動をしています。 この振動の振動数(周波数)に一致する赤外線を分子に照射すると、その赤外線のエネルギーが吸収されます。 赤外分光法(infrared spectroscopy, IR)は、この吸収を測定することで、分子内にどのような結合(官能基)があるかを調べる手法です。

IR スペクトルでは、横軸に波数(wavenumber)をとります。 波数は波長の逆数であり、単位は $\text{cm}^{-1}$ です。 波数が大きいほど振動の周波数が高く、エネルギーが大きいことを意味します。

なぜ結合の種類ごとに吸収位置が異なるのか

結合の振動を、2つの原子をばねでつないだモデルで考えます。 このとき、振動の周波数 $\nu$ は次の関係で近似できます。

二原子調和振動子の振動数(理論的原理からの導出値)

$$\tilde{\nu} = \frac{1}{2\pi c}\sqrt{\frac{k}{\mu}}$$

$\tilde{\nu}$:波数($\text{cm}^{-1}$)、$c$:光速(cm/s)、$k$:結合の力定数(N/m、ばね定数に相当)、$\mu$:換算質量(kg)

換算質量 $\mu$ は、結合している2つの原子の質量を $m_1$, $m_2$ として、

$$\mu = \frac{m_1 m_2}{m_1 + m_2}$$

この式はフックの法則に基づく調和振動子モデルから導かれます。 力定数 $k$ が大きいほど(結合が強いほど)、換算質量 $\mu$ が小さいほど(軽い原子を含むほど)、振動数は高くなり、波数は大きくなります。

この式から二つの重要な傾向が読み取れます。

  • 結合が強いほど波数が大きい:力定数 $k$ は C-C(単結合) < C=C(二重結合) < C$\equiv$C(三重結合)の順に大きくなるため、吸収位置は C-C $\approx 800\text{-}1200$ $\text{cm}^{-1}$ < C=C $\approx 1620\text{-}1680$ $\text{cm}^{-1}$ < C$\equiv$C $\approx 2100\text{-}2260$ $\text{cm}^{-1}$ の順に高波数側に移動します。
  • 軽い原子を含むほど波数が大きい:H は最も軽い原子であるため、O-H, N-H, C-H などの結合は高波数領域($2800\text{-}3600$ $\text{cm}^{-1}$)に吸収を示します。

官能基の同定に使う特性吸収帯

IR スペクトルの解析では、以下の特性吸収帯を覚えておくことが重要です。 各官能基がどの波数領域に吸収を持つかは、上で述べた力定数と換算質量の関係から理解できます。

波数($\text{cm}^{-1}$) 官能基 特徴
$3200\text{-}3600$ O-H(アルコール、カルボン酸) 幅広い吸収(水素結合による)
$3300\text{-}3500$ N-H(アミン) 第一級アミンは2本、第二級アミンは1本
$2850\text{-}3000$ C-H(アルカン) ほぼすべての有機化合物に見られる
$2100\text{-}2260$ C$\equiv$C, C$\equiv$N 三重結合の領域
$1680\text{-}1750$ C=O(カルボニル基) 強い吸収、非常に特徴的
$1600\text{-}1680$ C=C(アルケン、芳香環) 芳香環は $1450\text{-}1600$ $\text{cm}^{-1}$ にも吸収
IR スペクトルの読み方 ── 「ある・ない」の判定

IR スペクトルの最大の強みは、特定の官能基が「あるか・ないか」を素早く判定できることです。

$1680\text{-}1750$ $\text{cm}^{-1}$ に強い吸収があれば、C=O が存在します。$3200\text{-}3600$ $\text{cm}^{-1}$ に幅広い吸収があれば、O-H が存在します。

逆に、これらの領域に吸収が見られなければ、対応する官能基は含まれていないと判断できます。

質量分析で分子量と部分構造の候補を絞り込んだ後、IR で官能基の有無を確認することで、構造の候補をさらに減らすことができます。

「カルボン酸の O-H」と「アルコールの O-H」の区別

混同しやすい点:カルボン酸もアルコールも O-H 結合を持つため、どちらも $3200\text{-}3600$ $\text{cm}^{-1}$ に吸収を示す。IR だけでは区別が難しいのでは、と思うかもしれません。

区別の方法:カルボン酸の O-H は非常に幅広い吸収($2500\text{-}3300$ $\text{cm}^{-1}$ にまで及ぶことがある)を示し、同時に C=O の吸収($1710$ $\text{cm}^{-1}$ 付近)も現れます。 一方、アルコールの O-H は $3200\text{-}3600$ $\text{cm}^{-1}$ に幅広い吸収を示しますが、C=O の吸収はありません。 つまり、O-H と C=O の吸収が同時に見られればカルボン酸、O-H のみならアルコール、と判定できます。

ここまでで、MS で「分子量」と「部分構造」、IR で「官能基の種類」がわかることを確認しました。 しかし、まだ「原子が具体的にどのようにつながっているか」はわかっていません。 次のセクションでは、NMR 分光法を導入し、この最後の問いに答えます。

5核磁気共鳴(NMR)分光法 ─ 原子のつながりを解読する

NMR の基本原理

${}^1\text{H}$(水素原子核、プロトン)は、小さな磁石のような性質(核スピン)を持っています。 これは量子力学的な性質であり、原子核を構成する陽子と中性子のスピンに由来します。

試料を強い外部磁場の中に置くと、${}^1\text{H}$ の核スピンは磁場に沿う向き(低エネルギー状態)と逆の向き(高エネルギー状態)の2つの状態をとります。 この2つの状態のエネルギー差に対応するラジオ波(周波数数百 MHz 程度の電磁波)を照射すると、核スピンが低エネルギー状態から高エネルギー状態へ遷移します。 この遷移を検出するのがNMR 分光法(nuclear magnetic resonance spectroscopy)です。

NMR の共鳴条件(理論的原理)

$$\nu = \frac{\gamma B_0}{2\pi}$$

$\nu$:共鳴周波数(Hz)、$\gamma$:磁気回転比(核種に固有の定数)、$B_0$:外部磁場の強さ(T)

この式は、外部磁場が強いほど、2つのスピン状態のエネルギー差が大きくなり、より高い周波数のラジオ波で共鳴が起こることを示しています。 ${}^1\text{H}$ の場合、$B_0 = 9.4 \; \text{T}$ の磁場で約 $400 \; \text{MHz}$ の周波数に共鳴します。

化学シフト ─ 水素原子の「化学的環境」を読む

もしすべての ${}^1\text{H}$ がまったく同じ共鳴周波数を持つなら、NMR は構造決定の役に立ちません。 しかし、分子中の ${}^1\text{H}$ は、周囲の電子環境(化学的環境)が異なると、わずかに異なる共鳴周波数を示します。

これは、原子核の周りの電子が外部磁場を打ち消す方向の磁場(遮蔽磁場)をつくるためです。 電子密度が高い環境にある ${}^1\text{H}$ ほど、遮蔽が強くなり、実効的な磁場が弱まります。 その結果、共鳴に必要な周波数がわずかに低くなります。

この共鳴周波数のずれを定量的に表すのが化学シフト $\delta$ です。

化学シフトの定義(定義・規約)

$$\delta = \frac{\nu_{\text{sample}} - \nu_{\text{ref}}}{\nu_{\text{ref}}} \times 10^6 \quad (\text{ppm})$$

$\nu_{\text{sample}}$:試料中の ${}^1\text{H}$ の共鳴周波数、$\nu_{\text{ref}}$:基準物質(テトラメチルシラン、TMS)の共鳴周波数

基準物質 TMS($\text{Si(CH}_3\text{)}_4$)の化学シフトを $\delta = 0 \; \text{ppm}$ と定義します。 TMS を基準に選ぶのは、Si に結合した $\text{CH}_3$ の電子密度が非常に高く、ほとんどの有機化合物の ${}^1\text{H}$ よりも高磁場側(低い $\delta$)に共鳴するためです。 $10^6$ を掛けることで、値を ppm(百万分率)の単位で表します。

化学シフトの値は、${}^1\text{H}$ の化学的環境を反映します。 電子密度が低い(遮蔽が弱い)環境にある ${}^1\text{H}$ ほど $\delta$ が大きくなります。

化学シフト $\delta$(ppm) 水素の環境
$0.8\text{-}1.0$ $\text{CH}_3$(アルキル基末端) $\text{CH}_3\text{CH}_2\text{-}$ のメチル基
$1.2\text{-}1.4$ $\text{CH}_2$(アルキル鎖中) $\text{-CH}_2\text{-}$ のメチレン基
$2.0\text{-}2.5$ $\text{CH}_3\text{C=O}$ アセトンのメチル基
$3.3\text{-}3.9$ $\text{CH}$ 隣接 O, N $\text{-OCH}_3$, $\text{-OCH}_2\text{-}$
$4.5\text{-}6.5$ C=C 上の H(ビニル水素) $\text{CH}_2\text{=CH-}$
$6.5\text{-}8.0$ 芳香環上の H ベンゼン環の水素
$9.5\text{-}10.0$ アルデヒドの H(CHO) $\text{R-CHO}$
$10\text{-}12$ カルボン酸の OH $\text{R-COOH}$

化学シフトの大小が電子密度で決まる理由は明快です。 たとえば、$\text{-OCH}_3$ のメチル水素は、酸素原子が電子を引き寄せるため電子密度が低く、遮蔽が弱いので $\delta \approx 3.3\text{-}3.9$ と大きな値になります。 一方、$\text{CH}_3\text{CH}_2\text{-}$ の末端メチル水素は電子を引く原子が近くにないため、$\delta \approx 0.8\text{-}1.0$ と小さな値にとどまります。

積分比 ─ 各ピークの水素の個数

${}^1\text{H}$ NMR スペクトルにおいて、各ピークの面積(積分値)は、そのピークに対応する水素原子の個数に比例します。 これを積分比と呼びます。

たとえば、エタノール($\text{CH}_3\text{CH}_2\text{OH}$)の ${}^1\text{H}$ NMR では、$\text{CH}_3$(3H)、$\text{CH}_2$(2H)、OH(1H)に対応する3つのピーク群が現れ、その積分比は $3 : 2 : 1$ になります。 これにより、化学シフトの情報と合わせて「どのような環境の水素が何個ずつあるか」がわかります。

分裂パターン(カップリング) ─ 隣の水素の個数を読む

${}^1\text{H}$ NMR スペクトルでは、各ピークが複数の線に分かれている(分裂している)ことがよくあります。 これは、ある水素原子のスピン状態が、結合を介してつながっている隣の水素原子の核スピンから影響を受けるためです。 この現象をスピン-スピンカップリング(spin-spin coupling)と呼びます。

分裂のパターンは単純な規則に従います。

$n + 1$ 則(理論的原理からの帰結)

隣接する等価な水素が $n$ 個ある場合、注目するピークは $n + 1$ 本に分裂します。

各線の強度比はパスカルの三角形に従います。

隣接 H の数 $n$ 分裂数 名称 強度比
0 1 singlet (s) 1
1 2 doublet (d) $1 : 1$
2 3 triplet (t) $1 : 2 : 1$
3 4 quartet (q) $1 : 3 : 3 : 1$

この法則は、隣接する水素原子の核スピンの組み合わせを数え上げることで導かれます。 たとえば $n = 2$ の場合、2個の隣接 H のスピンの組み合わせは(上上)(上下)(下上)(下下)の4通りですが、(上下)と(下上)は同じ効果を持つため、3つの異なるエネルギー状態が生じ、ピークは3本に分裂します。

この規則を使うと、隣にいる水素の個数を直接読み取ることができます。 たとえば、あるピークが quartet(4本に分裂)であれば、その水素に隣接する等価な水素が3個ある、とわかります。

NMR スペクトルの読み方 ─ エタノールを例に

エタノール($\text{CH}_3\text{CH}_2\text{OH}$)の ${}^1\text{H}$ NMR スペクトルには、以下の情報が含まれます。

ピーク $\delta$(ppm) 積分比 分裂 帰属
A $1.2$ 3 triplet (t) $\text{CH}_3$:隣に $\text{CH}_2$(2H)があるので $2 + 1 = 3$ 本に分裂
B $3.7$ 2 quartet (q) $\text{CH}_2$:隣に $\text{CH}_3$(3H)があるので $3 + 1 = 4$ 本に分裂
C $2.6$ 1 singlet (s) OH:通常は分裂しない(水素結合による交換が速いため)

このデータから、次のことがわかります。 3個の水素($\delta = 1.2$, triplet)が2個の水素に隣接しており、その2個の水素($\delta = 3.7$, quartet)は酸素の近くにあり、さらに1個の OH 水素がある。 これを組み立てると、$\text{CH}_3\text{-CH}_2\text{-OH}$ という構造が一意に確定します。

${}^{13}\text{C}$ NMR

${}^1\text{H}$ NMR のほかに、${}^{13}\text{C}$ NMR という手法もあります。 天然の炭素のうち ${}^{13}\text{C}$ は約 $1.1\%$ しか存在しないため感度は低いですが、 分子中に何種類の炭素環境があるかを直接知ることができます。

たとえば、アセトン($\text{CH}_3\text{COCH}_3$)の ${}^{13}\text{C}$ NMR では、2種類の炭素($\text{CH}_3$ と C=O)に対応する2本のピークが現れます。 ${}^1\text{H}$ NMR と ${}^{13}\text{C}$ NMR を組み合わせることで、構造決定の精度がさらに高まります。

ここまでで、NMR が「化学シフト」「積分比」「分裂パターン」の三つの情報から原子のつながりを読み取れることを確認しました。 次のセクションでは、MS・IR・NMR の三つの手法を実際に組み合わせて、未知化合物の構造を決定する例を見ます。

6応用 ─ MS・IR・NMR を組み合わせた構造決定

ある未知化合物 X について、元素分析と分光法のデータが以下のように得られたとします。 MS・IR・NMR の情報を順に使って構造を決定してみます。

データの提示

元素分析(高校の手法):C $55.8\%$, H $7.0\%$, O $37.2\%$

MS:分子イオンピーク $m/z = 86$、主なフラグメントピーク $m/z = 43$

IR:$1715 \; \text{cm}^{-1}$ に強い吸収あり。$3200\text{-}3600 \; \text{cm}^{-1}$ に幅広い吸収なし。

${}^1\text{H}$ NMR:$\delta = 2.1 \; \text{ppm}$(singlet, 積分比 6)のピークのみ。

ステップ1:分子式の決定(元素分析 + MS)

元素分析の結果から各原子の物質量比を求めます。

$$\text{C} : \frac{55.8}{12} = 4.65, \quad \text{H} : \frac{7.0}{1} = 7.0, \quad \text{O} : \frac{37.2}{16} = 2.33$$

最小値(2.33)で割ると、

$$\text{C} : \text{H} : \text{O} = 2 : 3 : 1$$

組成式は $\text{C}_2\text{H}_3\text{O}$ で、式量は $12 \times 2 + 1 \times 3 + 16 = 43$ です。 MS で分子イオンピークが $m/z = 86$ なので、分子量は 86 です。 $86 / 43 = 2$ 倍なので、分子式は $\text{C}_4\text{H}_6\text{O}_2$ です。

不飽和度を計算します。$\text{C}_n\text{H}_m\text{O}_l$ の不飽和度は $(2n + 2 - m) / 2$ で求められます(O は不飽和度に影響しません)。

$$\text{U} = \frac{2 \times 4 + 2 - 6}{2} = \frac{4}{2} = 2$$

不飽和度 2 は、二重結合と環構造の合計が2であることを意味します。

ステップ2:官能基の特定(IR)

$1715 \; \text{cm}^{-1}$ の強い吸収は C=O(カルボニル基)の存在を示しています。 不飽和度 2 のうち少なくとも1つは C=O に由来します。

$3200\text{-}3600 \; \text{cm}^{-1}$ に幅広い吸収がないため、O-H はありません。 したがって、カルボン酸やアルコールは除外されます。

分子式 $\text{C}_4\text{H}_6\text{O}_2$ で、O-H なし、C=O あり、不飽和度 2 ── この条件を満たす構造として、以下が候補に挙がります。

  • 2つのケトン基を持つ化合物(たとえば 2,3-ブタンジオン $\text{CH}_3\text{COCOCH}_3$)
  • エステル結合(C=O を含む)を1つ持ち、もう1つの不飽和度は C=C のアルケニルエステル

ステップ3:構造の確定(NMR)

${}^1\text{H}$ NMR に $\delta = 2.1 \; \text{ppm}$ の singlet が1つだけ(積分比 6)現れています。 これは、分子中の全水素 6 個がすべて化学的に等価であることを意味します。 singlet であることから、隣接する水素原子が存在しません。

$\delta = 2.1 \; \text{ppm}$ は、C=O に隣接するメチル基($\text{CH}_3\text{C=O}$)の典型的な化学シフトです。 化学的に等価な6個の水素がすべてこの位置に現れるということは、2つの $\text{CH}_3\text{CO-}$ が存在し、それらが対称的に配置されていることを示しています。

以上の情報を総合すると、未知化合物 X の構造は 2,3-ブタンジオン(ジアセチル)$\text{CH}_3\text{COCOCH}_3$ と確定されます。

構造決定の論理の流れ

ステップ1(元素分析 + MS):分子式 $\text{C}_4\text{H}_6\text{O}_2$、不飽和度 2

ステップ2(IR):C=O あり、O-H なし → カルボン酸・アルコールを除外。不飽和度 2 のうち少なくとも1つは C=O

ステップ3(NMR):等価な H が 6 個、$\delta = 2.1$($\text{CH}_3\text{CO}$)、singlet(隣接 H なし)→ 2つの $\text{CH}_3\text{CO-}$ が対称に並ぶ構造 → $\text{CH}_3\text{COCOCH}_3$

検証:$\text{CH}_3\text{COCOCH}_3$ は分子式 $\text{C}_4\text{H}_6\text{O}_2$(一致)、不飽和度 2(C=O が2つで一致)、$1715 \; \text{cm}^{-1}$ 吸収(C=O で一致)、$\delta = 2.1$ singlet 6H(2つの等価な $\text{CH}_3$ で一致)。すべてのデータと矛盾なし。

MS のフラグメントピークが構造決定を裏付ける

見落としがち:フラグメントピークの情報を使わずに構造を決めてしまう。

裏付けとして使う:$m/z = 43$ のフラグメントは $\text{CH}_3\text{CO}^+$(質量 $12 + 3 + 12 + 16 = 43$)に対応します。 $\text{CH}_3\text{COCOCH}_3$ の分子イオン($m/z = 86$)から C-C 結合が1本切れると $\text{CH}_3\text{CO}^+$($m/z = 43$)が生じ、$86 - 43 = 43$ と一致します。 この「分子がちょうど半分に割れる」パターンは、分子の中央に対称な結合があることを裏付けています。

このように、MS で分子量と部分構造の手がかりを得て、IR で官能基の有無を判定し、NMR で原子のつながりを確定する ── この三段階のプロセスにより、構造異性体の中から正しい構造を一つに特定できます。

7つながりマップ

まとめ
  • 高校の元素分析では「何の原子がいくつあるか」(分子式)がわかりますが、構造異性体が複数ある場合に構造を一意に決められないことがあります。 大学の分光法(MS・IR・NMR)を加えることで、「原子がどうつながっているか」を確定し、構造を一意に決定できます。
  • 質量分析(MS)は分子をイオン化して $m/z$ を測定し、分子イオンピークから分子量を精密に決定します。 フラグメンテーションパターンから「分子がどこで割れるか」がわかり、部分構造の手がかりを得ます。
  • 赤外分光法(IR)は、結合の振動が赤外線を吸収する現象を利用し、官能基の有無を判定します。 吸収位置は力定数と換算質量で決まり、C=O($1680\text{-}1750 \; \text{cm}^{-1}$)、O-H($3200\text{-}3600 \; \text{cm}^{-1}$)など特徴的な位置に現れます。
  • ${}^1\text{H}$ NMR 分光法は、化学シフト(水素の化学的環境)、積分比(水素の個数比)、分裂パターン(隣接水素の個数)の三つの情報から、原子のつながりを解読します。
  • 構造決定では、MS → IR → NMR の順に情報を組み合わせます。分子式と分子量(MS)→ 官能基の有無(IR)→ 原子の接続関係(NMR)というように、段階的に候補を絞り込みます。

9確認テスト

理解度チェック

Q1. 質量分析(MS)のマススペクトルにおいて、分子イオンピーク($\text{M}^+$ ピーク)は何を表していますか。

クリックして解答を表示 分子イオンピークは、試料分子から電子が1個取り除かれたイオン $\text{M}^{+\cdot}$ に対応します。その $m/z$ 値は分子の分子量に等しく、分子量を直接的に決定できます。

Q2. IR スペクトルにおいて、C=O 結合の伸縮振動の吸収はおよそ何 $\text{cm}^{-1}$ に現れますか。また、C-C 単結合よりも高波数側に現れる理由を説明してください。

クリックして解答を表示 C=O の伸縮振動はおよそ $1680\text{-}1750 \; \text{cm}^{-1}$ に現れます。C=O 結合は C-C 単結合より力定数 $k$ が大きい(結合が強い)ため、振動数の式 $\tilde{\nu} = \frac{1}{2\pi c}\sqrt{k/\mu}$ において $k$ が大きくなり、波数が高くなります。

Q3. ${}^1\text{H}$ NMR において、あるピークが triplet(3本に分裂)に見える場合、このピークに対応する水素の隣に、等価な水素原子は何個ありますか。

クリックして解答を表示 $n + 1$ 則により、$n + 1 = 3$ なので $n = 2$ です。隣接する等価な水素原子は2個です。

Q4. ある化合物の ${}^1\text{H}$ NMR で、$\delta = 9.8 \; \text{ppm}$ に singlet のピークが1つ観測されました。このピークはどのような水素に帰属されますか。

クリックして解答を表示 $\delta = 9.5\text{-}10.0 \; \text{ppm}$ はアルデヒドの水素($\text{R-CHO}$)の典型的な化学シフトです。singlet であることから、この水素に隣接する水素がない(または R が水素を持たない炭素に結合している)ことが示唆されます。

10演習問題

問1 A 基本

以下の官能基について、IR スペクトルで吸収が現れるおおよその波数領域($\text{cm}^{-1}$)をそれぞれ答えてください。

(a) O-H(アルコール)

(b) C=O(カルボニル基)

(c) C$\equiv$C(三重結合)

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解答

(a) O-H:$3200\text{-}3600 \; \text{cm}^{-1}$(幅広い吸収)

(b) C=O:$1680\text{-}1750 \; \text{cm}^{-1}$(強い鋭い吸収)

(c) C$\equiv$C:$2100\text{-}2260 \; \text{cm}^{-1}$

解説

IR の吸収位置は「結合の強さ」と「結合に関わる原子の質量」で決まります。O-H は H が軽いため高波数側($3000 \; \text{cm}^{-1}$ 以上)に現れます。C=O は二重結合で力定数が大きいため、C-C 単結合より高波数側に現れます。C$\equiv$C は三重結合でさらに力定数が大きいですが、原子が H より重いため O-H ほど高波数にはなりません。

問2 B 計算 + 解析

元素分析で C $40.0\%$, H $6.7\%$, O $53.3\%$ であり、MS で分子イオンピーク $m/z = 60$ が得られた化合物の分子式を求めてください。 また、不飽和度を計算してください。

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解答

各元素の物質量比を求めます。

$$\text{C} : \frac{40.0}{12} = 3.33, \quad \text{H} : \frac{6.7}{1} = 6.7, \quad \text{O} : \frac{53.3}{16} = 3.33$$

最小値(3.33)で割ると、$\text{C} : \text{H} : \text{O} = 1 : 2 : 1$

組成式 $\text{CH}_2\text{O}$(式量 30)。分子量 60 なので $60 / 30 = 2$ 倍、分子式は $\text{C}_2\text{H}_4\text{O}_2$ です。

不飽和度:$\text{U} = (2 \times 2 + 2 - 4) / 2 = 1$

解説

分子式 $\text{C}_2\text{H}_4\text{O}_2$ で不飽和度 1 の化合物としては、ギ酸メチル($\text{HCOOCH}_3$)や酢酸($\text{CH}_3\text{COOH}$)、グリコールアルデヒド($\text{HOCH}_2\text{CHO}$)などの構造異性体が考えられます。IR や NMR のデータがあれば、これらを区別できます。

問3 B NMR 解析

分子式 $\text{C}_3\text{H}_6\text{O}$ の化合物について、${}^1\text{H}$ NMR スペクトルに以下のデータが得られました。

ピーク A:$\delta = 2.1 \; \text{ppm}$, singlet, 積分比 6

この化合物の構造を推定し、スペクトルデータとの整合性を説明してください。

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解答

構造はアセトン($\text{CH}_3\text{COCH}_3$)です。

解説

分子式 $\text{C}_3\text{H}_6\text{O}$ の不飽和度は $(2 \times 3 + 2 - 6)/2 = 1$ であり、二重結合または環構造が1つです。

NMR のデータから:

・$\delta = 2.1 \; \text{ppm}$ は C=O に隣接するメチル基の典型的な値です。

・singlet は隣接する水素がないことを意味します。

・積分比 6 は分子中の全水素 6 個がすべて等価であることを示します。

アセトンは2つの等価な $\text{CH}_3$ 基がカルボニル炭素に結合した構造であり、6 個の水素がすべて等価です。カルボニル炭素には H がないため、$\text{CH}_3$ は singlet になります。すべてのデータと一致します。

別の候補であるプロパナール($\text{CH}_3\text{CH}_2\text{CHO}$)では、3種類の水素($\text{CH}_3$, $\text{CH}_2$, CHO)が現れ、NMR に複数のピークが出るはずなので、除外されます。

問4 C 総合問題

ある化合物 Y について、以下のデータが得られました。化合物 Y の構造式を決定し、各データとの整合性を説明してください。

元素分析:C $52.2\%$, H $13.0\%$, O $34.8\%$

MS:分子イオンピーク $m/z = 46$

IR:$3200\text{-}3600 \; \text{cm}^{-1}$ に幅広い吸収あり。$1680\text{-}1750 \; \text{cm}^{-1}$ に吸収なし。

${}^1\text{H}$ NMR:$\delta = 1.2 \; \text{ppm}$(triplet, 積分比 3)、$\delta = 3.7 \; \text{ppm}$(quartet, 積分比 2)、$\delta = 2.6 \; \text{ppm}$(singlet, 積分比 1)

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解答

化合物 Y はエタノール($\text{CH}_3\text{CH}_2\text{OH}$)です。

解説

分子式の決定

$$\text{C} : \frac{52.2}{12} = 4.35, \quad \text{H} : \frac{13.0}{1} = 13.0, \quad \text{O} : \frac{34.8}{16} = 2.18$$

最小値(2.18)で割ると、$\text{C} : \text{H} : \text{O} = 2 : 6 : 1$、組成式 $\text{C}_2\text{H}_6\text{O}$(式量 46)。$m/z = 46$ と一致するので分子式は $\text{C}_2\text{H}_6\text{O}$ です。不飽和度は $(2 \times 2 + 2 - 6)/2 = 0$(二重結合・環構造なし)。

IR の解析:$3200\text{-}3600 \; \text{cm}^{-1}$ の幅広い吸収は O-H の存在を示します。$1680\text{-}1750 \; \text{cm}^{-1}$ に吸収がないので C=O はありません。これにより、$\text{C}_2\text{H}_6\text{O}$ のもう一つの構造異性体であるジメチルエーテル($\text{CH}_3\text{OCH}_3$)は O-H を持たないため除外されます。

NMR の解析

・$\delta = 1.2$(triplet, 3H):$\text{CH}_3$ 基、隣に 2 個の H($n + 1 = 3$)

・$\delta = 3.7$(quartet, 2H):$\text{CH}_2$ 基、O に隣接、隣に 3 個の H($n + 1 = 4$)

・$\delta = 2.6$(singlet, 1H):OH 基(交換が速いため分裂しない)

これらを組み立てると、$\text{CH}_3\text{-CH}_2\text{-OH}$(エタノール)が得られます。$\text{CH}_3$ と $\text{CH}_2$ が互いにカップリングして triplet / quartet のペアを示す点が、構造を確定させる決定的な証拠です。