高校化学では、有機化合物を官能基(ヒドロキシ基、カルボニル基、カルボキシ基など)で分類し、各官能基に固有の反応を個別に学びます。
アルデヒドは銀鏡反応を示す、カルボン酸はエステル化する、といった知識は正しいのですが、「なぜアルデヒドは還元性を持つのか」「なぜカルボニル基は求核剤に攻撃されるのか」という問いには答えにくい構成になっています。
大学有機化学では、官能基の反応性を電子密度の偏りという一つの原理から統一的に理解します。
電気陰性度の差が結合中の電子分布を偏らせ、その偏りが「電子の豊かな場所」と「電子の乏しい場所」を生みます。
電子が豊かな部位は求核剤として、電子が乏しい部位は求電子剤として働き、有機反応はこの二者の出会いとして記述できます。
高校化学では、有機化合物を官能基によって分類します。 官能基とは、有機化合物の反応性を決める特定の原子団のことであり、炭化水素の骨格(炭素と水素の鎖)に結合しています。 主な官能基を整理すると、次の表のようになります。
| 官能基 | 構造 | 化合物の分類 | 代表例 |
|---|---|---|---|
| ヒドロキシ基 | $\text{-OH}$ | アルコール | エタノール $\text{C}_2\text{H}_5\text{OH}$ |
| アルデヒド基 | $\text{-CHO}$ | アルデヒド | アセトアルデヒド $\text{CH}_3\text{CHO}$ |
| ケトン基 | $\text{C=O}$(両側にC) | ケトン | アセトン $\text{CH}_3\text{COCH}_3$ |
| カルボキシ基 | $\text{-COOH}$ | カルボン酸 | 酢酸 $\text{CH}_3\text{COOH}$ |
| アミノ基 | $\text{-NH}_2$ | アミン | メチルアミン $\text{CH}_3\text{NH}_2$ |
| エステル結合 | $\text{-COO-}$ | エステル | 酢酸エチル $\text{CH}_3\text{COOC}_2\text{H}_5$ |
高校ではこの分類に基づいて、各官能基に固有の反応を学びます。 たとえば、アルデヒドは銀鏡反応やフェーリング反応で検出でき、カルボン酸はアルコールとエステル化する、といった具合です。 これらは事実として正しく、反応の暗記には十分に役立ちます。
しかし、この分類方法では「なぜアルデヒドのカルボニル基は還元性を示すのにケトンのカルボニル基は示さないのか」「なぜ酢酸は水中で電離するのにエタノールはほとんど電離しないのか」といった問いに対して、体系的な答えを出しにくいのも事実です。 次のセクションで、これらの「なぜ」に答える視点を導入します。
大学有機化学では、官能基の反応性を電子密度の偏りという一つの視点から統一的に理解します。 共有結合において電子がどちらの原子に引き寄せられているかを見れば、分子のどこが「電子リッチ」でどこが「電子プア」なのかがわかります。 そして、有機反応の大半は「電子リッチな部位から電子プアな部位へ電子が流れる」ことで進行します。
この記事を読み終えると、以下のことができるようになります。
1. 共有結合の分極を電気陰性度の差から判断し、分子中の電子リッチ/電子プアな部位を特定できる
2. 誘起効果($\sigma$ 結合を通じた電子の偏り)を使って、置換基が反応性に与える影響を説明できる
3. 求核剤(電子対の供与体)と求電子剤(電子対の受容体)の概念で有機反応を分類できる
4. 共鳴効果($\pi$ 電子の非局在化)が分子の安定性と反応性に与える影響を説明できる
5. カルボニル基の分極を読み取り、求核付加反応が起こる理由を電子的に説明できる
この視点を構築するために、まず「結合の分極」を定量的に扱う準備を行います。 高校で学んだ電気陰性度の概念を、ここで有機化合物の結合分析に適用します。
2つの原子が共有結合するとき、結合に関与する電子対は必ずしも2つの原子の間に均等に分布しているわけではありません。 電気陰性度が大きい原子は電子を引きつける力が強いため、共有電子対はそちら側に偏ります。 この現象を結合の分極と呼びます。
高校では「分子の極性」として水 $\text{H}_2\text{O}$ やHClの例で学んでいます。 ここでは同じ原理を有機化合物の結合に適用します。
有機化合物に頻繁に登場する元素の電気陰性度(ポーリングのスケール、定義されたスケール)を確認します。
| 元素 | 電気陰性度 |
|---|---|
| $\text{C}$ | 2.55 |
| $\text{H}$ | 2.20 |
| $\text{N}$ | 3.04 |
| $\text{O}$ | 3.44 |
| $\text{F}$ | 3.98 |
| $\text{Cl}$ | 3.16 |
この表から、たとえば $\text{C-O}$ 結合では酸素の電気陰性度(3.44)が炭素(2.55)より大きいため、共有電子対は酸素側に偏ります。 その結果、酸素はわずかに負の電荷を帯び($\delta^-$)、炭素はわずかに正の電荷を帯びます($\delta^+$)。 これを双極子と呼び、$\text{C}^{\delta+}\text{-O}^{\delta-}$ と表記します。
$\sigma$ 結合(結合軸に沿った電子の重なり)と$\pi$ 結合(結合軸の上下での電子の重なり)の区別は、 📖 第2章 §2で詳しく解説しています。 ここでは要点を確認します。
単結合は $\sigma$ 結合1本からなり、二重結合は $\sigma$ 結合1本と $\pi$ 結合1本からなります。 $\sigma$ 結合も $\pi$ 結合も、電気陰性度の差があれば分極します。 特に $\pi$ 結合の電子は $\sigma$ 結合の電子に比べて原子核から遠い位置に分布しているため、外部の影響(隣接する置換基の電子的効果など)を受けやすいという特徴があります。
たとえばカルボニル基 $\text{C=O}$ では、$\sigma$ 結合も $\pi$ 結合も酸素側に分極しています。 その結果、炭素原子は顕著な $\delta^+$ を帯び、酸素原子は $\delta^-$ を帯びます。 この分極パターンが、カルボニル基の反応性を決定する鍵になります。
ここまでで、個々の結合がどちらに分極するかを電気陰性度から判断できるようになりました。 次のセクションでは、この分極の効果が隣接する結合に伝わっていく仕組み ── 誘起効果 ── を導入します。
セクション3で、$\text{C-O}$ 結合では酸素が電子を引きつけて炭素が $\delta^+$ になることを確認しました。 ここで重要なのは、この電子の偏りが「その結合だけ」にとどまらず、隣接する $\sigma$ 結合にも伝わっていくことです。 この効果を誘起効果(inductive effect)と呼びます。
誘起効果とは、電気陰性度の差による結合の分極が、$\sigma$ 結合の鎖を通じて隣接する結合に伝搬する効果です。
電子を引きつける方向に働く誘起効果を$-I$ 効果(電子求引性誘起効果)、 電子を押し出す方向に働く誘起効果を$+I$ 効果(電子供与性誘起効果)と呼びます。
誘起効果は、電気陰性度の差が引き起こす静電的な分極が $\sigma$ 結合の鎖に沿って減衰しながら伝わる現象です。 数値的に定義される量ではなく、置換基間の相対的な電子の偏りを記述する概念です。
クロロエタン $\text{CH}_3\text{CH}_2\text{Cl}$ を例にとります。 塩素の電気陰性度(3.16)は炭素(2.55)より大きいため、$\text{C-Cl}$ 結合は塩素側に分極します。
このとき、$\text{C-Cl}$ 結合に直結している炭素(1番炭素と呼びます)は $\delta^+$ になります。 すると、この1番炭素に結合している隣の炭素(2番炭素)との $\text{C-C}$ 結合でも、1番炭素が電子を引きつける方向に偏りが生じます。 結果として2番炭素もわずかに $\delta^+$ を帯びますが、その大きさは1番炭素よりも小さくなります。
$$\text{Cl}^{\delta-} \text{-} \text{C}^{\delta+}\text{H}_2 \text{-} \text{C}^{\small\delta+}\text{H}_3$$
このように、誘起効果は $\sigma$ 結合を1本経由するごとに急速に減衰します。 実際の有機分子では、2〜3結合先にはほとんど影響が及びません。
有機化学で頻繁に登場する置換基を、$-I$ 効果(電子求引性)と $+I$ 効果(電子供与性)に分類すると、次のようになります。
| $-I$ 効果(電子を引く) | $+I$ 効果(電子を押す) |
|---|---|
| $\text{-F, -Cl, -Br}$(ハロゲン) | $\text{-CH}_3$(メチル基) |
| $\text{-OH}$(ヒドロキシ基) | $\text{-C}_2\text{H}_5$(エチル基) |
| $\text{-NO}_2$(ニトロ基) | アルキル基全般 |
| $\text{-COOH}$(カルボキシ基) | |
| $\text{-NH}_3^+$ |
$-I$ 効果を示す置換基は、炭素よりも電気陰性度が大きい原子を含むか、正電荷を帯びている基です。 $+I$ 効果を示すアルキル基は、$\text{C-H}$ 結合において水素のほうが炭素よりわずかに電気陰性度が小さい(H: 2.20, C: 2.55)ため、電子がわずかに炭素側に偏り、結果としてアルキル基が結合先に電子を押し出す方向に働きます。
誘起効果の威力を、具体例で確認します。 酢酸 $\text{CH}_3\text{COOH}$ とクロロ酢酸 $\text{ClCH}_2\text{COOH}$ の酸としての強さ($K_a$)を比較します。
| 化合物 | $K_a$(実測値) | $\text{p}K_a$ |
|---|---|---|
| 酢酸 $\text{CH}_3\text{COOH}$ | $1.8 \times 10^{-5}$ | 4.74 |
| クロロ酢酸 $\text{ClCH}_2\text{COOH}$ | $1.4 \times 10^{-3}$ | 2.85 |
| ジクロロ酢酸 $\text{Cl}_2\text{CHCOOH}$ | $5.0 \times 10^{-2}$ | 1.30 |
| トリクロロ酢酸 $\text{Cl}_3\text{CCOOH}$ | $2.0 \times 10^{-1}$ | 0.70 |
塩素原子の数が増えるほど、酸の強さが劇的に増大しています。 これは誘起効果で説明できます。
カルボン酸の酸としての強さは、$\text{O-H}$ 結合が切れてプロトン $\text{H}^+$ が放出される反応の起こりやすさで決まります。 この反応で生じる共役塩基(カルボキシラートアニオン $\text{RCOO}^-$)が安定であるほど、平衡は電離側に傾き、酸は強くなります。
クロロ酢酸では、塩素原子の $-I$ 効果が $\sigma$ 結合を通じてカルボキシラートアニオンの負電荷を分散させます。 負電荷が分散するほどアニオンは安定化するため、電離が促進されます。 塩素を2個、3個と増やせば $-I$ 効果が累積し、負電荷の分散がさらに進むため、酸はますます強くなります。
カルボン酸の酸性度は、共役塩基($\text{RCOO}^-$)の安定性で決まります。
$-I$ 効果をもつ置換基が近くにあると、共役塩基の負電荷が分散して安定化し、酸性度が上がります。
$+I$ 効果をもつ置換基(アルキル基など)が近くにあると、負電荷の分散が妨げられ、酸性度が下がります。
この原理は、カルボン酸だけでなく、フェノールやアルコールなど、$\text{O-H}$ 結合を持つすべての化合物の酸性度に適用できます。
ここまでで、$\sigma$ 結合を通じて電子の偏りが伝わる「誘起効果」を導入し、それが酸性度という具体的な性質を説明できることを確認しました。 次のセクションでは、この電子の偏りをさらに一般化し、有機反応を「求核反応」と「求電子反応」に分類する枠組みを導入します。
セクション4で、電気陰性度の差によって分子中に「電子リッチな部位」と「電子プアな部位」が生じることを見ました。 有機反応は、この電子の偏りに駆動されて進行します。 具体的には、電子リッチな種が電子プアな種に電子対を供与することで新しい結合が形成されます。
この考え方は、📖 第4章 §1で導入したルイス酸・ルイス塩基の概念そのものです。 ルイス塩基は電子対の供与体、ルイス酸は電子対の受容体でした。 有機化学では、ルイス塩基に相当するものを求核剤(nucleophile)、ルイス酸に相当するものを求電子剤(electrophile)と呼びます。
求核剤(nucleophile):電子対を供与して新しい結合を形成する種。非共有電子対や $\pi$ 電子をもつ、電子リッチな分子やイオン。ルイス塩基に対応します。
求電子剤(electrophile):電子対を受容して新しい結合を形成する種。正電荷を帯びているか、電子密度の低い部位をもつ分子やイオン。ルイス酸に対応します。
nucleophile の語源はラテン語の nucleus(核)+ ギリシャ語の philos(好む)で、「核を好むもの」、すなわち正電荷を帯びた部位に向かっていく種を意味します。 electrophile は「電子を好むもの」で、電子リッチな部位に向かっていく種を意味します。
有機反応でよく登場する求核剤と求電子剤を整理します。
| 求核剤の例 | 電子供与の源 |
|---|---|
| $\text{HO}^-$(水酸化物イオン) | 酸素上の非共有電子対 |
| $\text{H}_2\text{O}$(水) | 酸素上の非共有電子対 |
| $\text{NH}_3$(アンモニア) | 窒素上の非共有電子対 |
| $\text{CN}^-$(シアン化物イオン) | 炭素上の非共有電子対 |
| アルケン($\text{C=C}$) | $\pi$ 結合の電子 |
| 求電子剤の例 | 電子受容の理由 |
|---|---|
| $\text{H}^+$(プロトン) | 空の 1s 軌道 |
| カルボニル炭素($\text{C}^{\delta+}\text{=O}^{\delta-}$) | 酸素による電子吸引で $\delta^+$ |
| $\text{BF}_3$ | ホウ素の空の p 軌道 |
| ハロゲン化アルキル($\text{R-X}$)の炭素 | ハロゲンの $-I$ 効果で $\delta^+$ |
ここで重要なのは、セクション4で学んだ誘起効果と求核剤/求電子剤の概念がつながっていることです。 $-I$ 効果をもつ置換基が結合した炭素は $\delta^+$ になり、求電子的な部位となります。 逆に、非共有電子対をもつ原子($\text{N}$, $\text{O}$, ハロゲンなど)は求核剤として働けます。
誤解:酸素は電気陰性度が大きく電子を引くのだから、酸素原子は求電子剤として働くのではないか。
正しい理解:酸素が電子を引くという事実は、$\text{C-O}$ 結合中の電子を酸素側に偏らせることを意味します。 その結果、酸素自身は電子リッチになり $\delta^-$ を帯びます。 電子リッチな酸素は、さらに電子を受け取る必要がないので、求電子剤にはなりません。 むしろ、酸素上の非共有電子対を使って求核剤として働くことがあります(水やアルコールが求核剤になる場合など)。 求電子的になるのは、電子を「引かれた側」の炭素です。
求核剤と求電子剤の概念を使うと、有機反応を大きく次の2つに分類できます。
高校で個別に学んだ多くの有機反応は、この2つのカテゴリのどちらかに分類できます。 この分類を知っておくと、反応の方向性(どの原子が攻撃され、どの結合が切れるか)を予測しやすくなります。
ここまでで、$\sigma$ 結合の分極(誘起効果)が求核/求電子の性質を決めることを見てきました。 しかし、有機化合物にはもう一つ重要な電子的効果があります。 $\pi$ 電子が複数の結合にまたがって広がる「共鳴効果」です。 次のセクションでこれを導入します。
セクション4で導入した誘起効果は $\sigma$ 結合を通じて伝わる効果でした。 有機化合物にはもう一つ、$\pi$ 結合や非共有電子対を通じて電子が広がる効果があります。 これが共鳴効果(resonance effect, mesomeric effect)です。
共鳴効果を理解するために、まず「共鳴」の概念を導入します。 ある分子の電子構造を一つのルイス構造式だけでは正確に表現できない場合があります。 そのとき、複数のルイス構造式を書いて「実際の分子はこれらのどれでもなく、すべての中間的な状態にある」と考えます。 この複数のルイス構造式を共鳴構造(resonance structure)と呼び、実際の分子はそれらの共鳴混成体(resonance hybrid)です。
共鳴とは、一つのルイス構造式では表現しきれない分子の電子配置を、複数のルイス構造式の「重ね合わせ」として記述する方法です。
実際の分子は、共鳴構造の間を行き来しているのではなく、最初からすべての共鳴構造を混ぜ合わせた一つの状態にあります。
共鳴は分子の実際の電子配置を近似的に記述するための手法であり、分子が「構造を切り替えている」わけではありません。 複数のルイス構造式の「平均」のような状態が実際の分子です。
共鳴の具体例として、セクション4でも登場したカルボキシラートアニオン $\text{RCOO}^-$ を取り上げます。 酢酸が電離して生じるアセテートイオン $\text{CH}_3\text{COO}^-$ には、次の2つの等価な共鳴構造を書くことができます。
構造A:左側の酸素に負電荷、右側の酸素と炭素の間が二重結合
構造B:右側の酸素に負電荷、左側の酸素と炭素の間が二重結合
実際のアセテートイオンでは、負電荷は2つの酸素に等しく分散しており、2本の $\text{C-O}$ 結合はどちらも単結合と二重結合の中間(1.5重結合)の長さを持つことが実験で確認されています。 $\text{C-O}$ 単結合の典型的な長さは 143 pm、$\text{C=O}$ 二重結合は 123 pm であるのに対し、カルボキシラートの $\text{C-O}$ は 127 pm と、ちょうど中間の値です。
この負電荷の分散こそが、カルボキシラートアニオンの安定性の源です。 セクション4で「$-I$ 効果が負電荷を分散させて安定化する」と述べましたが、共鳴効果による電荷の非局在化はそれ以上に強力な安定化要因です。 カルボン酸がアルコールより強い酸である主な理由は、この共鳴による安定化です。
2つの電子的効果の違いを整理します。
| 特徴 | 誘起効果 | 共鳴効果 |
|---|---|---|
| 伝搬経路 | $\sigma$ 結合の鎖 | $\pi$ 結合・非共有電子対の共役系 |
| 距離依存性 | 急速に減衰(2〜3結合先でほぼゼロ) | 共役系全体に広がる(減衰が小さい) |
| 効果の大きさ | 一般に小さい | 一般に大きい |
| 原因 | 電気陰性度の差 | $\pi$ 電子の非局在化 |
実際の有機分子では、誘起効果と共鳴効果が同時に働いています。 両者が同じ方向に働く場合(たとえばニトロ基 $\text{-NO}_2$ は $-I$ 効果と電子求引性の共鳴効果の両方を持つ)もあれば、 逆方向に働く場合(たとえばフッ素は強い $-I$ 効果を持つが、非共有電子対による電子供与性の共鳴効果も持つ)もあります。 このバランスが、有機化合物の反応性の多様さを生んでいます。
高校では、ベンゼン環の置換基によって次の置換反応が起こる位置(オルト/パラ配向かメタ配向か)を暗記します。 大学有機化学では、これを共鳴効果で説明できます。
たとえば、フェノールの $\text{-OH}$ は非共有電子対の共鳴効果でベンゼン環に電子を供与し、オルト位とパラ位の電子密度を上げます。 電子密度が高い位置ほど求電子剤が攻撃しやすいため、オルト/パラ配向となります。 この詳しい議論は 📖 第15章 §2 で行います。
ここまでで、有機化合物の電子的性質を理解するための2つの道具 ── 誘起効果と共鳴効果 ── を導入しました。 次のセクションでは、これらの道具を実際に使って、カルボニル基の反応性を電子的視点から分析します。
カルボニル基 $\text{C=O}$ は、有機化学で最も重要な官能基の一つです。 アルデヒド、ケトン、カルボン酸、エステル、アミドなど、多くの化合物に含まれています。 セクション3〜5で学んだ電子的視点を使って、カルボニル基の反応性を分析します。
酸素の電気陰性度(3.44)は炭素(2.55)より大きいため、$\text{C=O}$ の $\sigma$ 結合も $\pi$ 結合も酸素側に分極しています。 その結果、カルボニル炭素は $\delta^+$ を帯び、求電子的な部位になります。 一方、酸素は $\delta^-$ を帯び、非共有電子対を2組持っているため、求核的な部位です。
カルボニル基の分極は、共鳴構造によっても表現できます。
構造A(主要):$\text{C=O}$(通常の二重結合)
構造B(寄与小):${}^+\text{C-O}^-$(炭素が正、酸素が負の電荷を持つ)
実際のカルボニル基は、構造Aと構造Bの共鳴混成体です。 構造Bの寄与は小さいですが、カルボニル炭素が部分的に正電荷を帯びることを示しています。 この $\delta^+$ の炭素が、求核剤に攻撃される場所になります。
カルボニル基に対する典型的な反応が求核付加反応です。 求核剤がカルボニル炭素($\delta^+$)を攻撃し、$\pi$ 結合が切れて新しい $\sigma$ 結合が形成されます。
たとえば、アセトアルデヒド $\text{CH}_3\text{CHO}$ にシアン化物イオン $\text{CN}^-$ が反応するシアノヒドリン生成反応を考えます。
ステップ1:$\text{CN}^-$ は炭素上の非共有電子対を持つ求核剤です。アルデヒドのカルボニル炭素($\delta^+$)を攻撃します。
ステップ2:$\text{C=O}$ の $\pi$ 結合が切れ、$\pi$ 電子は酸素に移動します。炭素は4本の $\sigma$ 結合を持つ $\text{sp}^3$ 混成になります。
ステップ3:酸素上の負電荷がプロトン $\text{H}^+$ を受け取り、ヒドロキシ基となります。
この反応を駆動しているのは、セクション3〜5で学んだ「電子密度の偏り」です。 カルボニル基の $\text{C=O}$ 分極が求電子的な炭素を生み、そこに求核剤が引きつけられて反応が進行します。
セクション1で提起した「なぜアルデヒドはケトンより反応性が高いのか」という問いに、ここで答えることができます。
アルデヒド $\text{RCHO}$ のカルボニル炭素には、1つの水素と1つのアルキル基が結合しています。 ケトン $\text{RCOR'}$ のカルボニル炭素には、2つのアルキル基が結合しています。
セクション4で確認した通り、アルキル基は $+I$ 効果(電子供与性)を持ちます。 ケトンではアルキル基が2つあるため、カルボニル炭素に電子が供与される効果が大きく、$\delta^+$ の大きさが減少します。 一方、アルデヒドではアルキル基が1つしかない(もう一方は水素で、$+I$ 効果がほぼない)ため、カルボニル炭素の $\delta^+$ がケトンより大きくなります。
さらに、アルキル基が2つあるケトンでは、カルボニル炭素周辺が立体的に混み合っているため(立体障害)、求核剤が近づきにくいという効果もあります。 電子的効果(誘起効果)と立体的効果の両方が、アルデヒドをケトンより反応性の高い化合物にしています。
高校で学ぶ「アルデヒドは銀鏡反応を示すがケトンは示さない」という事実は、ここで学んだ電子的視点から自然に理解できます。 銀鏡反応はカルボニル炭素が酸化される反応であり、$\delta^+$ が大きいアルデヒドのほうが酸化されやすいからです。
Q1. $\text{C-N}$ 結合と $\text{C-O}$ 結合のうち、分極がより大きいのはどちらですか。理由も答えてください。
Q2. 誘起効果の特徴として正しいものを次から選んでください。(a) $\pi$ 結合を通じて伝わる (b) $\sigma$ 結合を通じて伝わる (c) 分子全体に均一に広がる (d) 距離によらず一定の効果を持つ
Q3. カルボニル基 $\text{C=O}$ において、求核剤が攻撃するのは炭素と酸素のどちらですか。電子的な理由を説明してください。
Q4. 酢酸($\text{p}K_a = 4.74$)よりトリクロロ酢酸($\text{p}K_a = 0.70$)のほうが強い酸である理由を、誘起効果を用いて説明してください。
次の結合について、電子が偏る方向を不等号($\delta^+$ 側 → $\delta^-$ 側)で示してください。
(a) $\text{C-F}$
(b) $\text{C-H}$
(c) $\text{N-H}$
(d) $\text{C-Cl}$
(a) $\text{C}^{\delta+}\text{-F}^{\delta-}$(F の電気陰性度 3.98 > C の 2.55)
(b) $\text{C}^{\delta-}\text{-H}^{\delta+}$(C の電気陰性度 2.55 > H の 2.20。ただし差が小さいため分極は小さい)
(c) $\text{N}^{\delta-}\text{-H}^{\delta+}$(N の電気陰性度 3.04 > H の 2.20)
(d) $\text{C}^{\delta+}\text{-Cl}^{\delta-}$(Cl の電気陰性度 3.16 > C の 2.55)
次の種のうち、求核剤として働くものをすべて選び、それぞれの電子供与の源(非共有電子対か $\pi$ 電子か)を答えてください。
$\text{H}_2\text{O}$, $\text{H}^+$, $\text{NH}_3$, $\text{BF}_3$, $\text{Br}^-$, エチレン $\text{CH}_2\text{=CH}_2$
求核剤:$\text{H}_2\text{O}$(酸素上の非共有電子対)、$\text{NH}_3$(窒素上の非共有電子対)、$\text{Br}^-$(臭素上の非共有電子対)、エチレン $\text{CH}_2\text{=CH}_2$($\pi$ 電子)
$\text{H}^+$ は空の軌道を持つ求電子剤(ルイス酸)です。$\text{BF}_3$ もホウ素に空の p 軌道を持つ求電子剤です。
次の3つのカルボン酸を、酸の強い順に並べてください。また、その順序を誘起効果を用いて説明してください。
(i) プロパン酸 $\text{CH}_3\text{CH}_2\text{COOH}$($\text{p}K_a = 4.87$)
(ii) 2-クロロプロパン酸 $\text{CH}_3\text{CHClCOOH}$($\text{p}K_a = 2.83$)
(iii) 3-クロロプロパン酸 $\text{ClCH}_2\text{CH}_2\text{COOH}$($\text{p}K_a = 3.98$)
酸の強い順:(ii) > (iii) > (i)
$\text{p}K_a$ が小さいほど酸が強いので、$2.83 < 3.98 < 4.87$ の順です。
(i) プロパン酸にはハロゲンがなく、メチル基($+I$ 効果)とメチレン基があるだけなので、共役塩基の安定化に寄与する $-I$ 効果がありません。3つの中で最も弱い酸です。
(ii) 2-クロロプロパン酸では、塩素がカルボキシ基の隣の炭素($\alpha$ 位)に直結しています。塩素の $-I$ 効果がわずか $\sigma$ 結合1本の距離で共役塩基の負電荷を分散させるため、最も強い酸になります。
(iii) 3-クロロプロパン酸では、塩素がカルボキシ基から $\sigma$ 結合2本分離れた炭素($\beta$ 位)に結合しています。$-I$ 効果は距離とともに減衰するため、(ii) ほど強くはないものの、(i) よりは強い酸になります。
この結果は、誘起効果が $\sigma$ 結合を通じて急速に減衰するという性質と整合しています。
エタノール $\text{C}_2\text{H}_5\text{OH}$($\text{p}K_a \approx 16$)は、酢酸 $\text{CH}_3\text{COOH}$($\text{p}K_a = 4.74$)に比べて極めて弱い酸です。 この酸性度の違いを、次の2つの観点から説明してください。
(a) 共役塩基の共鳴安定化の有無
(b) 結合している炭素の混成軌道の違いとそれが電気陰性度に与える影響
(a) 共鳴安定化
酢酸が電離して生じるアセテートイオン $\text{CH}_3\text{COO}^-$ では、負電荷が2つの酸素原子に等しく非局在化しています(2つの等価な共鳴構造が書ける)。この共鳴安定化により、アニオンのエネルギーが大きく下がり、電離が有利になります。
一方、エタノールが電離して生じるエトキシドイオン $\text{C}_2\text{H}_5\text{O}^-$ では、負電荷は酸素1原子に局在化しており、共鳴構造を書くことができません。共鳴安定化がないため、アニオンが不安定で電離が起こりにくく、酸性度が極めて低くなります。
(b) 混成軌道と電気陰性度
酢酸のカルボニル炭素は $\text{sp}^2$ 混成です。$\text{sp}^2$ 混成軌道は s 性が大きい(33%)ため、$\text{sp}^3$ 混成軌道(s 性 25%)に比べて電子を原子核に近く引きつけます。これは、$\text{sp}^2$ 炭素のほうが $\text{sp}^3$ 炭素より実効的に電気陰性度が大きいことを意味します。
酢酸では $\text{sp}^2$ 炭素が酸素と結合しているため、酸素上の電子密度がわずかに減少し、$\text{O-H}$ 結合のプロトンが離れやすくなります。エタノールでは酸素に結合している炭素が $\text{sp}^3$ 混成であり、この効果が小さくなります。
ただし、(a) の共鳴安定化の効果のほうが (b) の効果よりもはるかに大きく、$\text{p}K_a$ で約11もの差がある主な原因は共鳴安定化です。