高校化学では、メタン $\text{CH}_4$ は正四面体形、アンモニア $\text{NH}_3$ は三角錐形、水 $\text{H}_2\text{O}$ は折れ線形、二酸化炭素 $\text{CO}_2$ は直線形 ── このように分子の形を個別に覚え、その形から極性の有無を判断します。
しかし、「なぜメタンは正四面体形なのか」「なぜ水は折れ線形なのか」には答えられません。
大学化学では、混成軌道(sp, sp${}^2$, sp${}^3$)とVSEPR理論(原子価殻電子対反発理論)という2つの道具を使って、中心原子の電子配置から分子の形を予測します。
混成軌道の種類が電子対の配置の骨格を決め、VSEPR理論が孤立電子対の影響を加味して最終的な分子の形を導きます。
この流れを身につけると、高校で暗記していた分子の形がすべて一つの原理から導けるようになり、さらに初見の分子の形と極性も予測できるようになります。
高校化学では、代表的な分子の形を次のように学びます。
| 分子 | 形 | 結合角 | 極性 |
|---|---|---|---|
| $\text{CO}_2$ | 直線形 | $180{}^\circ$ | 無極性 |
| $\text{BF}_3$ | 平面三角形 | $120{}^\circ$ | 無極性 |
| $\text{CH}_4$ | 正四面体形 | $109.5{}^\circ$ | 無極性 |
| $\text{NH}_3$ | 三角錐形 | $107{}^\circ$ | 極性あり |
| $\text{H}_2\text{O}$ | 折れ線形 | $104.5{}^\circ$ | 極性あり |
これらは「そういう形である」として覚え、極性は「対称性が高ければ無極性、低ければ極性あり」と判断します。 非共有電子対(孤立電子対)が分子の形に影響することも学びますが、「なぜ孤立電子対があると結合角が狭くなるのか」までは踏み込みません。
また、高校では電子式(ルイス構造)を書いて共有電子対と孤立電子対の数を把握しますが、 そこから分子の形を体系的に予測する方法は学びません。 結合角が $109.5{}^\circ$ や $107{}^\circ$ といった具体的な値をとる理由も説明されません。
次のセクションでは、大学の視点を導入することで、この表のすべての分子の形を一つの原理から予測できるようになることを確認します。
大学化学では、分子の形を暗記するのではなく、中心原子の電子配置から予測するという考え方をとります。 そのために使う道具が、混成軌道とVSEPR理論です。
この記事を読み終えると、以下のことができるようになります。
1. sp, sp${}^2$, sp${}^3$ 混成軌道がどのような場合に形成されるかを説明できる
2. VSEPR理論を用いて、中心原子の電子対の数から分子の形(電子対の配置と分子の形状)を予測できる
3. 孤立電子対が結合角を狭くする理由を説明できる
4. 分子の形と結合の極性から、分子全体の極性の有無を判定できる
5. 初見の分子に対して、混成軌道の種類 → 電子対の配置 → 分子の形 → 極性の判定、という一連の手順を適用できる
この予測の流れを組み立てるために、まず「混成軌道」という概念を導入する必要があります。 これは、 📖 第1章 §1 で学んだ s 軌道と p 軌道を「混ぜ合わせる」操作に基づいています。 次のセクションで、なぜ混ぜ合わせる必要があるのかを見ていきます。
混成軌道の必要性は、炭素原子を考えるとわかります。 📖 第1章 §1 で学んだように、炭素の基底状態の電子配置は $1s^2 \, 2s^2 \, 2p^2$ です。 2p 軌道には2個の不対電子があるので、このままでは共有結合を2本しか作れないはずです。
しかし、メタン $\text{CH}_4$ では炭素は4本の等価な結合を形成しています。 さらに、4本の結合は $109.5{}^\circ$ の結合角で正四面体形に配置されています。 s 軌道は球対称で方向性がなく、p 軌道は互いに $90{}^\circ$ の方向を向いているので、 $2s$ と $2p$ をそのまま使っても正四面体の方向($109.5{}^\circ$)は実現できません。
この矛盾を解決するのが混成軌道(hybrid orbital)という考え方です。 結合を形成する際、原子軌道がそのまま使われるのではなく、エネルギー的に近い s 軌道と p 軌道が「混ぜ合わさって」新しい軌道を作ります。 この混ぜ合わせは数学的には波動関数の線形結合(足し合わせ)に対応します。
炭素原子の $2s$ 軌道1つと $2p$ 軌道3つ($2p_x$, $2p_y$, $2p_z$)を混ぜ合わせると、 4つの等価な sp${}^3$ 混成軌道が生まれます。 「sp${}^3$」という名前は、s 軌道1つと p 軌道3つを混ぜたことを表しています。
1つの s 軌道と3つの p 軌道から、4つの等価な sp${}^3$ 混成軌道が形成される。
方向:正四面体の4つの頂点を向く(隣接する軌道間の角度は $109.5{}^\circ$)
形状:各混成軌道は一方向に大きく伸びた形をしており、その方向で結合相手と重なる
混成軌道は理論的に導入された概念です。原子が結合を形成するとき、もとの s, p 軌道をそのまま使うより、 混成軌道を作った方がエネルギー的に有利(結合が強くなる)であるため、この描像が採用されます。 混成軌道同士の方向が $109.5{}^\circ$ になるのは、4つの軌道が空間中でできるだけ均等に離れた方向を向く結果です。
メタン $\text{CH}_4$ では、炭素の4つの sp${}^3$ 混成軌道がそれぞれ水素原子の 1s 軌道と重なって、4本の $\sigma$ 結合( 📖 第2章 §2 )を形成します。4つの sp${}^3$ 混成軌道は正四面体の方向を向いているので、メタンは正四面体形になります。
1つの s 軌道と2つの p 軌道を混ぜ合わせると、3つの等価な sp${}^2$ 混成軌道が生まれます。 残りの1つの p 軌道は混成に参加せず、そのまま残ります。
3つの sp${}^2$ 混成軌道は、同一平面内で $120{}^\circ$ の角度で配置されます(平面三角形の方向)。 混成に参加しなかった p 軌道は、この平面に垂直な方向を向いています。
たとえばエチレン $\text{C}_2\text{H}_4$ では、各炭素が sp${}^2$ 混成をとっています。 3つの sp${}^2$ 混成軌道のうち2つが水素との $\sigma$ 結合に、1つがもう一方の炭素との $\sigma$ 結合に使われます。 残った p 軌道同士が横から重なって $\pi$ 結合( 📖 第2章 §2 )を形成し、二重結合($\sigma$ 結合 + $\pi$ 結合)が完成します。 sp${}^2$ 混成軌道が平面三角形の方向を向いているため、エチレンは平面構造をとります。
三フッ化ホウ素 $\text{BF}_3$ でも同様に、ホウ素が sp${}^2$ 混成をとり、3つの B-F 結合が $120{}^\circ$ の角度で平面三角形に配置されます。
1つの s 軌道と1つの p 軌道を混ぜ合わせると、2つの等価な sp 混成軌道が生まれます。 残りの2つの p 軌道は混成に参加せず、そのまま残ります。
2つの sp 混成軌道は、$180{}^\circ$ の角度で正反対の方向を向きます(直線形の方向)。 残った2つの p 軌道は、この直線に垂直な2方向を向いています。
アセチレン $\text{C}_2\text{H}_2$ では、各炭素が sp 混成をとっています。 2つの sp 混成軌道のうち1つが水素との $\sigma$ 結合に、1つがもう一方の炭素との $\sigma$ 結合に使われます。 残った2つの p 軌道がそれぞれ $\pi$ 結合を形成し、三重結合($\sigma$ 結合 + $\pi$ 結合 $\times 2$)が完成します。 sp 混成軌道が直線方向を向いているため、アセチレンは直線形です。
二酸化炭素 $\text{CO}_2$ でも、中心の炭素が sp 混成をとり、2本の C=O 二重結合が $180{}^\circ$ の方向に伸びるため、直線形になります。
| 混成の種類 | 混ぜる軌道 | 混成軌道の数 | 方向(角度) | 残る p 軌道 | 例 |
|---|---|---|---|---|---|
| sp${}^3$ | s + p $\times$ 3 | 4 | 正四面体($109.5{}^\circ$) | 0 | $\text{CH}_4$, $\text{NH}_3$, $\text{H}_2\text{O}$ |
| sp${}^2$ | s + p $\times$ 2 | 3 | 平面三角形($120{}^\circ$) | 1 | $\text{BF}_3$, $\text{C}_2\text{H}_4$ |
| sp | s + p $\times$ 1 | 2 | 直線形($180{}^\circ$) | 2 | $\text{CO}_2$, $\text{C}_2\text{H}_2$ |
誤解:結合を4本作るから sp${}^3$ 混成、3本だから sp${}^2$ 混成、と結合の本数だけで決まる。
正しい理解:混成軌道の数は、結合に使う電子対(共有電子対)と孤立電子対(非共有電子対)の合計で決まります。 たとえば、$\text{NH}_3$ の窒素は結合3本 + 孤立電子対1つ = 合計4つの電子対を持つため、sp${}^3$ 混成です(sp${}^2$ ではありません)。 この点は次のセクションで詳しく扱います。
ここまでで、混成軌道が分子の骨格(電子対が向かう方向)を決めることがわかりました。 しかし、この表で $\text{NH}_3$ と $\text{H}_2\text{O}$ が sp${}^3$ 混成であるにもかかわらず、 正四面体形ではなくそれぞれ三角錐形・折れ線形になることの説明がまだありません。 これを理解するために、次のセクションでVSEPR理論を導入します。
VSEPR理論(Valence Shell Electron Pair Repulsion theory、原子価殻電子対反発理論)は、 1957年にギレスピーとナイホルムが体系化した、分子の形を予測するための理論です。 基本原理は非常にシンプルです。
中心原子の原子価殻にある電子対(共有電子対と孤立電子対の両方)は、互いの静電反発を最小にするように、 中心原子のまわりにできるだけ離れて配置される。
この原理から、電子対の数に応じた「電子対の配置」が決まり、そこから分子の形が導かれます。
電子対はいずれも負電荷を持っているので、互いに反発します。 この反発を最小にするには、電子対同士が空間的にできるだけ遠く離れればよい ── これがVSEPR理論の出発点です。
中心原子のまわりに $n$ 個の電子対がある場合、それらが互いにできるだけ離れて配置される幾何学的配置は、次のようになります。
| 電子対の数 | 電子対の配置 | 電子対間の角度 | 対応する混成 |
|---|---|---|---|
| 2 | 直線形 | $180{}^\circ$ | sp |
| 3 | 平面三角形 | $120{}^\circ$ | sp${}^2$ |
| 4 | 正四面体形 | $109.5{}^\circ$ | sp${}^3$ |
ここで重要な点は、混成軌道の方向とVSEPR理論の予測が一致するということです。 sp${}^3$ 混成軌道が4つの等価な方向を向く角度は $109.5{}^\circ$ であり、これは4つの電子対が反発を最小にする配置(正四面体)と同じです。 sp${}^2$ の $120{}^\circ$(平面三角形)、sp の $180{}^\circ$(直線形)も同様です。
つまり、混成軌道は「電子対がどの方向に配置されるか」の骨格を与え、VSEPR理論は「なぜその方向に配置されるか」の物理的理由(電子対間の反発の最小化)を与えます。 この2つは同じ現象を別の角度から記述しているのです。
VSEPR理論では、電子対の配置(electron-pair geometry)と分子の形(molecular geometry)を区別します。 この区別が、混成軌道だけでは説明しきれなかった $\text{NH}_3$ や $\text{H}_2\text{O}$ の形を理解する鍵になります。
たとえば、sp${}^3$ 混成(電子対4つ)の場合、電子対の配置はつねに正四面体形です。 しかし、4つの電子対のうちいくつかが孤立電子対であれば、原子の位置だけで見た「分子の形」は正四面体形とは異なります。 次のセクションで、この違いを具体的に見ていきます。
セクション4で導入したVSEPR理論の核心を使って、セクション1で暗記していた分子の形を一つずつ導いていきます。 すべての出発点は同じです。中心原子の電子対の総数を数え、混成の種類を決め、孤立電子対の数に応じて分子の形を決定します。
$\text{CH}_4$(メタン): 炭素の価電子は4個で、水素4つとそれぞれ1本ずつ共有結合を作ります。 共有電子対4つ、孤立電子対0つ、電子対の総数は4です。 電子対の配置は正四面体形(sp${}^3$)であり、4つの電子対すべてが結合に使われているので、 分子の形もそのまま正四面体形です。結合角は $109.5{}^\circ$ です。
$\text{BF}_3$(三フッ化ホウ素): ホウ素の価電子は3個で、フッ素3つとそれぞれ1本ずつ共有結合を作ります。 共有電子対3つ、孤立電子対0つ、電子対の総数は3です。 電子対の配置は平面三角形(sp${}^2$)であり、分子の形もそのまま平面三角形です。結合角は $120{}^\circ$ です。
$\text{CO}_2$(二酸化炭素): 炭素は2つの酸素とそれぞれ二重結合を作ります。 VSEPR理論では、二重結合は1つの「電子対の領域」として数えます(多重結合はまとめて1つと数える)。 電子対の領域は2つ、孤立電子対は0つなので、電子対の配置は直線形(sp)です。 分子の形もそのまま直線形で、結合角は $180{}^\circ$ です。
$\text{NH}_3$(アンモニア): 窒素の価電子は5個です。水素3つとそれぞれ1本ずつ共有結合を作ると、共有電子対3つに電子6個が使われ、 残りの2個は孤立電子対1つを形成します。 電子対の総数は 3(共有) + 1(孤立) = 4 です。
電子対の総数が4なので、電子対の配置は正四面体形(sp${}^3$ 混成)です。 しかし、4つの電子対のうち1つは孤立電子対であり、その位置には原子がありません。 原子の位置だけで見ると、窒素を頂点として3つの水素が底面を作る三角錐形になります。
ここで、VSEPR理論のもう一つの重要な原則が登場します。
電子対間の反発の強さには、次の順序があります。
孤立電子対 - 孤立電子対 > 孤立電子対 - 共有電子対 > 共有電子対 - 共有電子対
孤立電子対は結合相手の原子核に引き寄せられず、中心原子の近くに広がるため、 共有電子対よりも大きな空間を占めます。そのため、孤立電子対を含む反発は共有電子対同士の反発より強くなります。 この規則は、分子の形を実験的に観測した結果と、静電反発の理論から導かれます。
$\text{NH}_3$ では、孤立電子対が共有電子対をより強く押しのけるため、H-N-H の結合角は理想的な正四面体角 $109.5{}^\circ$ より狭い $107{}^\circ$ に縮みます。 これが、高校で「$\text{NH}_3$ の結合角は $107{}^\circ$」と覚えていた値の物理的な理由です。
$\text{H}_2\text{O}$(水): 酸素の価電子は6個です。水素2つとそれぞれ1本ずつ共有結合を作ると、共有電子対2つに電子4個が使われ、 残りの4個は孤立電子対2つを形成します。 電子対の総数は 2(共有) + 2(孤立) = 4 です。
電子対の総数が4なので、電子対の配置はやはり正四面体形(sp${}^3$ 混成)です。 しかし、4つの電子対のうち2つが孤立電子対なので、原子の位置だけで見ると折れ線形になります。
孤立電子対が2つあるため、共有電子対への圧迫はさらに強くなり、H-O-H の結合角は $104.5{}^\circ$ まで狭まります。 $\text{NH}_3$(孤立電子対1つ、結合角 $107{}^\circ$)と比べて結合角がさらに小さいのは、 孤立電子対の数が増えたことで反発が強まったためです。
以上をまとめると、sp${}^3$ 混成(電子対の配置:正四面体形)の分子は、孤立電子対の数によって異なる形をとることがわかります。
| 共有電子対 | 孤立電子対 | 電子対の配置 | 分子の形 | 結合角 | 例 |
|---|---|---|---|---|---|
| 4 | 0 | 正四面体形 | 正四面体形 | $109.5{}^\circ$ | $\text{CH}_4$ |
| 3 | 1 | 正四面体形 | 三角錐形 | $\approx 107{}^\circ$ | $\text{NH}_3$ |
| 2 | 2 | 正四面体形 | 折れ線形 | $\approx 104.5{}^\circ$ | $\text{H}_2\text{O}$ |
電子対の配置(正四面体形)はすべて同じですが、「見えない」孤立電子対の数によって分子の見た目の形が変わるのです。 高校で $\text{CH}_4$、$\text{NH}_3$、$\text{H}_2\text{O}$ の形を個別に覚えていたものが、 「sp${}^3$ 混成 + 孤立電子対の数」という一つの原理で統一的に説明できました。
1. 混成軌道の種類が電子対の配置(骨格)を決める:sp${}^3$ → 正四面体、sp${}^2$ → 平面三角形、sp → 直線形
2. 孤立電子対の数が骨格からのずれを生む:孤立電子対は原子の位置に含まれないため、分子の形を「削って」変える
結合角は、孤立電子対が増えるほど理想値から小さくなる。これは孤立電子対が共有電子対よりも大きな反発を及ぼすためである。
ここまでで、混成軌道とVSEPR理論を組み合わせることで、分子の形を予測する方法が完成しました。 次のセクションでは、予測した分子の形を使って、分子の極性を判定する方法を見ていきます。
2つの異なる原子間の共有結合では、電気陰性度の大きい方の原子が電子をより強く引きつけます( 📖 第1章 §3 )。 その結果、電子の分布が偏り、電気陰性度の大きい側が部分的に負($\delta^-$)、小さい側が部分的に正($\delta^+$)に帯電します。 この電荷の偏りを結合双極子と呼びます。
各結合の双極子は、大きさと方向を持つベクトルです。 分子全体の極性(分子双極子モーメント)は、すべての結合双極子のベクトル和で決まります。
$\text{CO}_2$:直線形であり、2つの C=O 結合の双極子は大きさが等しく逆方向を向いています。 ベクトルの和はゼロになるため、分子全体としては無極性です。
$\text{BF}_3$:平面三角形であり、3つの B-F 結合の双極子は $120{}^\circ$ ずつ離れた方向を向いています。 3つの等しいベクトルが $120{}^\circ$ 間隔で配置されると、ベクトル和はゼロになります。したがって無極性です。
$\text{CH}_4$:正四面体形であり、4つの C-H 結合の双極子は正四面体の4方向を向いています。 対称性から、4つのベクトルの和はゼロになり、無極性です。
$\text{NH}_3$:三角錐形であり、3つの N-H 結合の双極子は下向きに(窒素から水素の方向に)傾いています。 正四面体の4方向のうち3方向にだけベクトルがあるので、ベクトル和は上向き(窒素の孤立電子対の方向)に残ります。 さらに、孤立電子対そのものも窒素側に電子密度を集中させるので、分子全体として極性ありです。 実測の双極子モーメントは 1.47 D です。
$\text{H}_2\text{O}$:折れ線形であり、2つの O-H 結合の双極子は $104.5{}^\circ$ の角度をなしています。 直線形($180{}^\circ$)であれば打ち消し合いますが、折れ線形では打ち消されません。 ベクトル和は孤立電子対の側を向き、分子全体として極性ありです。 実測の双極子モーメントは 1.85 D です。
分子が極性を持つかどうかは、以下の手順で判定できます。
実用的には、「すべての結合が等価で、かつ分子の形が高い対称性を持つ場合(直線形・平面三角形・正四面体形)は無極性、 それ以外は極性あり」と判定できます。ただし、この判定はベクトル和の計算に基づいています。
双極子モーメント $\mu$ は、電荷の偏りの大きさ $q$ と電荷間の距離 $d$ の積で定義されます。
$$\mu = q \times d$$
単位はデバイ(D)が伝統的に使われ、$1 \; \text{D} = 3.336 \times 10^{-30} \; \text{C} \cdot \text{m}$ です。 $\mu$ が大きいほど、分子の電荷の偏りが大きいことを意味します。 水の双極子モーメント 1.85 D は、分子の中では比較的大きな値であり、 水が優れた極性溶媒として機能する理由の一つです。
以上で、混成軌道の種類 → VSEPR理論による分子の形の予測 → 分子の極性の判定、という一連の流れが完成しました。 次のセクションでは、この手順を使って、セクション1の表にない分子の形と極性を実際に予測してみます。
ここまでで学んだ手順(電子対の数を数える → 混成の種類を決める → 孤立電子対を考慮して分子の形を予測する → 極性を判定する)を、 いくつかの具体例に適用します。
ステップ1:窒素の価電子は5個。フッ素3つとそれぞれ1本ずつ共有結合を作り、共有電子対3つ。残りの2個は孤立電子対1つ。
ステップ2:電子対の総数 = 3 + 1 = 4。sp${}^3$ 混成。電子対の配置は正四面体形。
ステップ3:孤立電子対1つを除くと、分子の形は三角錐形。$\text{NH}_3$ と同じ形です。
ステップ4:三角錐形は非対称なので、結合双極子のベクトル和はゼロになりません。極性ありです。 ただし、フッ素は窒素より電気陰性度が大きいため、結合双極子は N → F の向き(窒素から離れる方向)を向きます。 一方、孤立電子対は窒素側に電子密度を集中させます。 $\text{NF}_3$ ではこの2つの効果が部分的に打ち消し合うため、双極子モーメントは $\text{NH}_3$(1.47 D)より小さい 0.23 D になります。
ステップ1:硫黄の価電子は6個。水素2つとそれぞれ1本ずつ共有結合を作り、共有電子対2つ。残りの4個は孤立電子対2つ。
ステップ2:電子対の総数 = 2 + 2 = 4。sp${}^3$ 混成。電子対の配置は正四面体形。
ステップ3:孤立電子対2つを除くと、分子の形は折れ線形。$\text{H}_2\text{O}$ と同じ形です。
ステップ4:折れ線形は非対称なので極性ありです。実測の双極子モーメントは 0.97 D で、$\text{H}_2\text{O}$(1.85 D)より小さい値です。 これは S-H 結合の極性が O-H 結合の極性より小さい(硫黄と水素の電気陰性度差が小さい)ためです。
ステップ1:炭素の価電子は4個。塩素4つとそれぞれ1本ずつ共有結合を作り、共有電子対4つ。孤立電子対は0。
ステップ2:電子対の総数 = 4。sp${}^3$ 混成。電子対の配置は正四面体形。
ステップ3:孤立電子対がないので、分子の形もそのまま正四面体形。
ステップ4:正四面体形は高い対称性を持ち、4つの等価な C-Cl 結合の双極子は完全に打ち消し合います。 各 C-Cl 結合は極性を持ちますが、分子全体としては無極性です。
ステップ1:炭素の価電子は4個。酸素と二重結合(1つの電子対の領域)、水素2つとそれぞれ単結合。 電子対の領域は 1(C=O) + 2(C-H) = 3。孤立電子対は0。
ステップ2:電子対の領域が3なので sp${}^2$ 混成。電子対の配置は平面三角形。
ステップ3:孤立電子対がないので、分子の形もそのまま平面三角形。 ただし、C=O 結合と C-H 結合は異なるため、正三角形ではなく、結合角は $120{}^\circ$ から若干ずれます。
ステップ4:3つの結合がすべて等価ではないので(C=O と C-H は異なる極性を持つ)、ベクトル和はゼロになりません。 極性ありです。実測の双極子モーメントは 2.33 D です。
誤解:$\text{CCl}_4$ の C-Cl 結合は極性を持つ。だから $\text{CCl}_4$ も極性分子である。
正しい理解:分子の極性は、個々の結合の極性ではなく、すべての結合双極子のベクトル和で決まります。 $\text{CCl}_4$ は正四面体形であるため、4つの等価な結合双極子が対称に配置され、ベクトル和はゼロになります。 したがって $\text{CCl}_4$ は無極性分子です。 分子の極性を判定するには、必ず分子の形を考慮する必要があります。
| 分子 | 電子対の領域 | 孤立電子対 | 混成 | 分子の形 | 極性 |
|---|---|---|---|---|---|
| $\text{CO}_2$ | 2 | 0 | sp | 直線形 | 無極性 |
| $\text{BF}_3$ | 3 | 0 | sp${}^2$ | 平面三角形 | 無極性 |
| $\text{HCHO}$ | 3 | 0 | sp${}^2$ | 平面三角形 | 極性あり |
| $\text{CH}_4$ | 4 | 0 | sp${}^3$ | 正四面体形 | 無極性 |
| $\text{CCl}_4$ | 4 | 0 | sp${}^3$ | 正四面体形 | 無極性 |
| $\text{NH}_3$, $\text{NF}_3$ | 4 | 1 | sp${}^3$ | 三角錐形 | 極性あり |
| $\text{H}_2\text{O}$, $\text{H}_2\text{S}$ | 4 | 2 | sp${}^3$ | 折れ線形 | 極性あり |
この表のすべての分子の形と極性は、「電子対の領域を数える → 混成を決める → 孤立電子対を引いて形を決める → ベクトル和で極性を判定する」という同じ手順で得られています。 高校では個別に覚えていた内容が、一つの体系的な方法で統一されています。
Q1. 炭素原子の基底状態の電子配置は $1s^2 \, 2s^2 \, 2p^2$ であり、不対電子は2個です。メタン $\text{CH}_4$ で炭素が4本の等価な結合を作れる理由を、混成軌道の概念を用いて説明してください。
Q2. $\text{NH}_3$ と $\text{H}_2\text{O}$ はどちらも sp${}^3$ 混成ですが、分子の形が異なります。この違いの理由を説明してください。
Q3. $\text{CO}_2$ と $\text{H}_2\text{O}$ はどちらも中心原子に2つの結合がありますが、一方は無極性で他方は極性分子です。この違いを分子の形に基づいて説明してください。
Q4. $\text{CCl}_4$ は無極性分子ですが、$\text{CHCl}_3$(クロロホルム)は極性分子です。この違いの理由を説明してください。
次の分子について、中心原子の混成軌道の種類を答えてください。
(a) $\text{BeH}_2$ (b) $\text{BCl}_3$ (c) $\text{SiH}_4$ (d) $\text{PH}_3$
(a) $\text{BeH}_2$:Be の価電子は2個。共有電子対2つ、孤立電子対0。電子対の領域 = 2。sp 混成。
(b) $\text{BCl}_3$:B の価電子は3個。共有電子対3つ、孤立電子対0。電子対の領域 = 3。sp${}^2$ 混成。
(c) $\text{SiH}_4$:Si の価電子は4個。共有電子対4つ、孤立電子対0。電子対の領域 = 4。sp${}^3$ 混成。
(d) $\text{PH}_3$:P の価電子は5個。共有電子対3つ、孤立電子対1つ。電子対の領域 = 4。sp${}^3$ 混成。
次の分子について、(i) 中心原子の混成軌道の種類、(ii) 電子対の配置、(iii) 分子の形、(iv) 極性の有無を答えてください。
(a) $\text{OF}_2$(二フッ化酸素) (b) $\text{CS}_2$(二硫化炭素) (c) $\text{SCl}_2$(二塩化硫黄)
(a) $\text{OF}_2$:O の価電子 6個。共有電子対 2つ、孤立電子対 2つ。電子対の領域 = 4。
(i) sp${}^3$ 混成 (ii) 正四面体形 (iii) 折れ線形 (iv) 極性あり
$\text{H}_2\text{O}$ と同じ構造です。O-F 結合の双極子が $180{}^\circ$ でないため打ち消されません。
(b) $\text{CS}_2$:C の価電子 4個。S と二重結合が2つ。電子対の領域 = 2、孤立電子対 0。
(i) sp 混成 (ii) 直線形 (iii) 直線形 (iv) 無極性
$\text{CO}_2$ と同じ構造です。2つの C=S の双極子が正反対方向を向き打ち消し合います。
(c) $\text{SCl}_2$:S の価電子 6個。共有電子対 2つ、孤立電子対 2つ。電子対の領域 = 4。
(i) sp${}^3$ 混成 (ii) 正四面体形 (iii) 折れ線形 (iv) 極性あり
$\text{H}_2\text{O}$ と同じ構造です。折れ線形なので S-Cl 結合の双極子は打ち消されません。
$\text{CH}_4$、$\text{NH}_3$、$\text{H}_2\text{O}$ の結合角はそれぞれ $109.5{}^\circ$、$107{}^\circ$、$104.5{}^\circ$ です。 この順に結合角が小さくなる理由を、VSEPR理論を用いて説明してください。
3つの分子はいずれも sp${}^3$ 混成(電子対4つ)であり、電子対の配置は正四面体形です。しかし、孤立電子対の数が異なります。
$\text{CH}_4$:孤立電子対 0 → 4つの共有電子対が均等に配置され、結合角は理想値の $109.5{}^\circ$。
$\text{NH}_3$:孤立電子対 1 → 孤立電子対は共有電子対より大きな反発を及ぼすため、共有電子対同士が圧迫されて結合角が $107{}^\circ$ に縮む。
$\text{H}_2\text{O}$:孤立電子対 2 → 孤立電子対からの反発がさらに強まり、結合角が $104.5{}^\circ$ まで縮む。
VSEPR理論の規則「孤立電子対-共有電子対の反発 > 共有電子対-共有電子対の反発」により、孤立電子対が増えるほど共有電子対は圧迫され、結合角が小さくなります。
$\text{NH}_3$ の双極子モーメントは 1.47 D ですが、$\text{NF}_3$ の双極子モーメントは 0.23 D と、はるかに小さい値です。 どちらも三角錐形であるにもかかわらず、双極子モーメントの大きさが大きく異なる理由を、結合双極子と孤立電子対の効果に基づいて説明してください。
$\text{NH}_3$ では、N-H 結合の双極子は水素から窒素の方向を向きます(窒素の方が電気陰性度が大きい)。3つの結合双極子のベクトル和は、三角錐の頂点(窒素側)を向きます。窒素上の孤立電子対も窒素側に電子密度を集中させるので、結合双極子と孤立電子対の効果は同じ方向に働き、双極子モーメントが大きくなります。
$\text{NF}_3$ では、N-F 結合の双極子は窒素からフッ素の方向を向きます(フッ素の方が電気陰性度が大きい)。3つの結合双極子のベクトル和は、三角錐の底面側(フッ素側)を向きます。一方、窒素上の孤立電子対は窒素側に電子密度を集中させるので、結合双極子と孤立電子対の効果は逆方向に働きます。この相殺により、$\text{NF}_3$ の双極子モーメントは大幅に小さくなります。
この問題は、分子の極性が単に分子の形だけでなく、結合双極子の方向と孤立電子対の効果の両方を考慮して決まることを示しています。形が同じ(三角錐形)でも、結合双極子と孤立電子対の効果の方向関係によって、双極子モーメントの大きさは大きく変わります。