高校化学では、ベンゼン $\text{C}_6\text{H}_6$ は正六角形の構造をもち、「単結合と二重結合の中間的な結合」からなる安定な分子であると学びます。
この説明は正しいのですが、「なぜ中間的な結合になるのか」「なぜそれが安定性をもたらすのか」について定量的な答えは示されません。
大学化学では、ベンゼンの安定性をπ電子の非局在化という概念で説明します。
6個の炭素原子がそれぞれ1つずつもつp軌道が環全体で重なり合い、π電子が特定の結合に局在せず環全体に広がることで、大きなエネルギー安定化が生じます。
この安定化の大きさは、水素化熱の実測値から定量的に求めることができます。
さらに、この「π電子の非局在化による安定化」が起こるための条件をまとめたものがヒュッケル則(4n+2則)です。
ヒュッケル則を使えば、ある環状分子が芳香族性をもつかどうかを判定できます。
π電子の非局在化を出発点として、ベンゼンの安定性の定量的な理解、置換反応を好む理由、そして芳香族性の判定基準(ヒュッケル則)までを順に見ていきます。
高校化学では、ベンゼンについて以下のことを学びます。
これらの事実は正しく、大学でもそのまま使います。 しかし、高校の段階では「なぜ単結合と二重結合の中間になるのか」「なぜベンゼン環が壊れにくいのか」を定量的に説明する道具が与えられていません。 「中間的な結合」という表現は結果の記述であり、その原因を説明するものではありません。
大学化学では、この「なぜ」に対してπ電子の非局在化という明確な答えを与えます。 そして、その非局在化がどれほどの安定化をもたらすのかを実測値から求め、さらにどのような分子で同様の安定化が起こるのかを予測できるようになります。
大学化学では、ベンゼンの「単結合と二重結合の中間」という高校の記述を、6個のπ電子が環全体に非局在化していると表現します。 以下では、この「非局在化」とは具体的にどういうことか、順を追って見ていきます。
この記事を読み終えると、以下のことができるようになります。
1. ベンゼンのπ電子が環全体に非局在化する仕組みを、p軌道の重なりから説明できる
2. 共鳴エネルギーの大きさを水素化熱の実測値から求め、非局在化がもたらす安定化を定量的に評価できる
3. ベンゼンが付加反応ではなく置換反応を好む理由を、共鳴エネルギーの損失という観点から説明できる
4. ヒュッケル則(4n+2則)の4つの条件を使って、ある環状分子が芳香族かどうかを判定できる
π電子の非局在化を理解するには、σ結合とπ結合の区別、そしてp軌道の形を知る必要があります。 これらは 📖 第2章 §2 で詳しく解説しています。次のセクションで要点を確認します。
共有結合にはσ結合とπ結合の2種類があります(📖 第2章 §2)。 ここではベンゼンの構造を理解するために必要な要点を確認します。
ベンゼンの各炭素原子は3つの原子(隣接する炭素2つと水素1つ)と結合しています。 3方向に等価な結合をつくるために、炭素はsp$^2$混成の状態をとります(📖 第2章 §3)。
sp$^2$混成では、炭素の2s軌道と2p軌道のうち2つが混ざり合い、同一平面内に120°の角度で3つのsp$^2$混成軌道ができます。 これらのsp$^2$混成軌道がσ結合を形成します。 残りの1つの2p軌道(混成に使われなかったもの)は、分子平面に垂直な方向に突き出ています。
ここが重要な点です。ベンゼンの6個の炭素がすべてsp$^2$混成をとるため、6個の炭素すべてが、分子平面に垂直な方向に1つずつp軌道をもっていることになります。 しかもベンゼンは正六角形の平面構造ですから、これら6つのp軌道は互いに平行に並んでいます。
通常の二重結合(たとえばエチレン $\text{C}_2\text{H}_4$)では、2つの炭素のp軌道どうしが側方から重なって、1本のπ結合をつくります。 π電子は2つの炭素の間に局在しています。
しかしベンゼンでは、6つのp軌道が環状に並んで互いに重なり合っています。 隣り合うp軌道どうしが次々と重なっていくため、π電子は隣の2つの炭素の間だけでなく、環全体に広がって存在することができます。 これがπ電子の非局在化です。
量子力学の一般原理として、電子が存在できる空間が広いほど、電子のエネルギーは低くなります。 これは、箱の中の粒子のエネルギーが箱の大きさに反比例すること($E \propto 1/L^2$)から理解できます。 ベンゼンでは、π電子が2つの炭素間に局在するのではなく6個の炭素全体に広がるため、大きなエネルギー安定化が生じます。
ベンゼンのσ骨格(sp$^2$混成軌道によるσ結合のネットワーク)が正六角形の平面構造をつくり、 その上下にπ電子が環全体にわたって非局在化している ─ これがベンゼンの電子構造の全体像です。 ここまでで「なぜ6つの結合が等価なのか」がわかりました。すべての炭素-炭素結合がσ結合1本をもち、それに加えてπ電子が環全体に均等に分布しているからです。 次のセクションでは、この非局在化がどれだけの安定化をもたらすかを、実測値から定量的に求めます。
ベンゼンの構造をルイス構造式(電子式)で描こうとすると、二重結合を配置する方法が2通りあります。 1つは C1=C2, C3=C4, C5=C6 とする描き方、もう1つは C2=C3, C4=C5, C6=C1 とする描き方です。 これら2つの構造をケクレ構造と呼びます。
実際のベンゼンは、このどちらか一方の構造ではありません。 前のセクションで見たように、π電子は環全体に非局在化しており、6つの炭素-炭素結合はすべて等価です。 実測によるベンゼンのC-C結合長は 0.139 nm であり、これはC-C単結合(0.154 nm)とC=C二重結合(0.134 nm)の中間の値です。
共鳴とは、1つのルイス構造では表現しきれない電子の非局在化を、複数のルイス構造(共鳴構造)の「重ね合わせ」として記述する方法です。 ベンゼンは2つのケクレ構造の間で共鳴しているといいます。 ただし、ベンゼンがこの2つの構造の間を行き来しているわけではありません。 実際の電子分布は1つであり、それをルイス構造という不完全な道具で描こうとしたときに、2つの構造が必要になるだけです。
誤り:ベンゼンの二重結合は2つのケクレ構造の間を高速で切り替わっている
正しい:ベンゼンの電子分布は常に1つであり、6つの結合は常に等価である。2つのケクレ構造は、この電子分布をルイス構造で近似的に描いたものにすぎない
「共鳴」という言葉から「振動」や「切り替わり」を連想しがちですが、分子は静的に1つの電子分布をもっています。共鳴構造はあくまで描き方の問題です。
π電子の非局在化がもたらす安定化の大きさを、実験で定量することができます。 そのために使うのが水素化熱(水素化エンタルピー)です。 水素化熱とは、不飽和結合に水素 $\text{H}_2$ を付加したときに放出されるエネルギーのことです。
シクロヘキセン(環状で二重結合1つをもつ分子)の水素化熱は、実験で測定すると $-120 \; \text{kJ/mol}$ です(実測値)。 1つの二重結合を水素化すると 120 kJ/mol のエネルギーが放出されるということです。
もしベンゼンが、3つの独立した二重結合をもつ「架空のシクロヘキサトリエン」であったとすると、 水素化熱はシクロヘキセンの3倍、すなわち $-120 \times 3 = -360 \; \text{kJ/mol}$ になるはずです。
しかし、ベンゼンの水素化熱の実測値は $-208 \; \text{kJ/mol}$ です。 予想値 $-360 \; \text{kJ/mol}$ よりも $152 \; \text{kJ/mol}$ だけ放出エネルギーが小さい ─ つまり、ベンゼンは「架空のシクロヘキサトリエン」よりも 152 kJ/mol だけすでに安定な状態にあるということです。
$$E_{\text{res}} = \Delta H_{\text{hydro}}(\text{predicted}) - \Delta H_{\text{hydro}}(\text{observed})$$
$$= (-360) - (-208) = -152 \; \text{kJ/mol} \quad (\text{absolute value: } 152 \; \text{kJ/mol})$$
$E_{\text{res}}$:共鳴エネルギー(非局在化エネルギーとも呼ぶ)
$\Delta H_{\text{hydro}}(\text{predicted})$:孤立した二重結合3つ分として予想した水素化熱($-360 \; \text{kJ/mol}$)
$\Delta H_{\text{hydro}}(\text{observed})$:ベンゼンの水素化熱の実測値($-208 \; \text{kJ/mol}$)
この値は「定義」ではなく、2つの実測値の差から計算で求められる導出値です。
文献によって $150 \sim 152 \; \text{kJ/mol}$ の範囲で報告されます。
約 150 kJ/mol という値は非常に大きなエネルギーです。 参考までに、C-C単結合の結合エネルギーは約 348 kJ/mol、C-H結合の結合エネルギーは約 413 kJ/mol です。 共鳴エネルギーはC-C単結合の結合エネルギーの約43%に相当し、これがベンゼン環の並外れた安定性の源です。
ここまでで、セクション3で導入したπ電子の非局在化が約 150 kJ/mol もの安定化をもたらすことが、実測値によって定量的に確認されました。 次に、この大きな安定化エネルギーが、ベンゼンの反応性にどのような影響を与えるかを考えます。
高校では「ベンゼンは付加反応よりも置換反応を好む」と学びます。 これを共鳴エネルギーの観点から説明できます。
たとえば、ベンゼンに臭素 $\text{Br}_2$ を反応させる場合を考えます。
付加反応では約 150 kJ/mol のエネルギー的不利が生じるのに対し、置換反応ではそれがありません。 したがって、ベンゼンはエネルギー的に有利な置換反応を選択します。 高校で「ベンゼンは安定だから付加反応をしにくい」と学んだ事実に、共鳴エネルギーという定量的な裏付けが加わりました。
ベンゼンに見られるような、π電子の非局在化による特別な安定化のことを芳香族性(aromaticity)と呼びます。 高校では「ベンゼン環をもつ化合物が芳香族」と定義しますが、大学化学ではベンゼン環をもたない化合物にも芳香族性が認められます。 では、どのような分子が芳香族性をもつのでしょうか。
1931年にエーリヒ・ヒュッケルが提唱したヒュッケル則は、芳香族性をもつための条件を次のようにまとめます。
ある分子が芳香族性をもつためには、以下の4つの条件をすべて満たす必要があります。
ヒュッケル則は、環状共役系の分子軌道計算から導かれる理論的原理です。 $4n+2$ という数は、環状に配置されたp軌道から生じる分子軌道のエネルギー準位に電子を詰めたとき、 すべての結合性軌道がちょうど電子で満たされて閉殻構造をとる条件として導出されます。 $n$ は 0 以上の整数であり、物理的な意味としては「結合性軌道の縮退ペアの数」に対応します。
ベンゼンでこの4条件を確認します。
ベンゼンは4条件をすべて満たすため、芳香族性をもちます。 重要なのは、条件4の「$4n+2$」です。もしπ電子が4個($4n$)であった場合、分子は芳香族性をもたず、かえって不安定になります(これを反芳香族性と呼びます)。
環状共役系の分子軌道を計算すると、最もエネルギーの低い軌道が1つあり、その上に2つずつ対(縮退ペア)になったエネルギー準位が並びます。 最低エネルギーの軌道に2個、各縮退ペアに4個(2つの軌道 × 各2個)の電子が入るため、すべての結合性軌道を満たすのに必要な電子数は $2 + 4n$ 個、すなわち $4n + 2$ 個となります。 これがヒュッケル則の $4n+2$ の由来です。
π電子が $4n$ 個(4, 8, 12, … 個)の環状平面共役分子は、結合性軌道が完全に満たされず、 縮退した2つの軌道に電子が1つずつ入る不安定な状態になります。 このような分子は反芳香族と呼ばれ、同じ数のπ電子をもつ鎖状の共役系よりもかえって不安定です。 代表例として、4個のπ電子をもつ平面のシクロブタジエン $\text{C}_4\text{H}_4$ があります。 シクロブタジエンは極めて不安定で、通常の条件では単離できません。
ここまでで、セクション3のπ電子の非局在化 → セクション4の共鳴エネルギーによる定量化 → セクション5の置換反応の理由とヒュッケル則、という積み上げが完成しました。 すべてが「π電子の非局在化による安定化」という一つの原理に基づいています。 次のセクションでは、ヒュッケル則を実際にさまざまな分子に適用して、芳香族性の有無を判定します。
ヒュッケル則の4条件を使って、さまざまな環状分子の芳香族性を判定してみます。 判定の手順は次のとおりです。
ナフタレンは2つのベンゼン環が辺を共有して縮合した分子です。
4条件をすべて満たすため、ナフタレンは芳香族性をもちます。 実際に、ナフタレンにも共鳴エネルギーが存在し(約 255 kJ/mol)、ベンゼンと同様に置換反応を好みます。
シクロオクタテトラエン(COT)は8員環に4つの二重結合が交互に並んだ分子です。
COTは条件2(平面)と条件3(完全共役)を満たさないため、芳香族性をもちません。 実際に、COTはベンゼンとは異なり付加反応を起こしやすい性質をもっています。
シクロペンタジエン $\text{C}_5\text{H}_6$ から水素イオン $\text{H}^+$ が1つ脱離して生じるアニオンです。 ベンゼン環をもたないにもかかわらず、芳香族性をもつ例として重要です。
4条件をすべて満たすため、シクロペンタジエニルアニオンは芳香族性をもちます。 実際に、シクロペンタジエンの $\text{p}K_\text{a}$ は約16であり、通常の炭化水素($\text{p}K_\text{a} \approx 50$)と比べて桁違いに酸性度が高いです。 これは、$\text{H}^+$ を放出して生じるアニオンが芳香族性により安定化されるためです。
7員環に3つの二重結合をもつシクロヘプタトリエンから $\text{H}^-$(ヒドリド)が脱離して生じるカチオンです。
トロピリウムイオンは芳香族性をもちます。 このイオンはカチオンとしては異例の安定性を示し、$\text{C}_7\text{H}_7^+\text{Br}^-$ として安定な塩を形成します。
| 分子 | 環状 | 平面 | 完全共役 | π電子数 | $4n+2$ | 芳香族性 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| ベンゼン $\text{C}_6\text{H}_6$ | ○ | ○ | ○ | 6 | ○($n=1$) | あり |
| ナフタレン $\text{C}_{10}\text{H}_8$ | ○ | ○ | ○ | 10 | ○($n=2$) | あり |
| シクロオクタテトラエン $\text{C}_8\text{H}_8$ | ○ | × | × | 8 | ×($4n$) | なし |
| $\text{C}_5\text{H}_5^-$ | ○ | ○ | ○ | 6 | ○($n=1$) | あり |
| $\text{C}_7\text{H}_7^+$ | ○ | ○ | ○ | 6 | ○($n=1$) | あり |
| シクロブタジエン $\text{C}_4\text{H}_4$ | ○ | ○ | ○ | 4 | ×($4n$) | 反芳香族 |
この表から、芳香族性の判定にはπ電子数が $4n+2$ であることが決定的に重要であることがわかります。 同じ環状平面共役系でも、π電子数が $4n$ のシクロブタジエンは反芳香族になり、$4n+2$ のシクロペンタジエニルアニオンやトロピリウムイオンは芳香族性をもちます。 イオンであっても芳香族性をもつことができるという事実は、高校の「ベンゼン環をもつ化合物 = 芳香族」という定義を大きく拡張するものです。
環を構成する原子がすべて炭素でなくても、ヒュッケル則を満たせば芳香族性をもちます。 環の中に窒素や酸素などのヘテロ原子を含む芳香族化合物をヘテロ芳香族化合物と呼びます。
ピリジン $\text{C}_5\text{H}_5\text{N}$:ベンゼンの炭素1つを窒素に置き換えた6員環です。 窒素もsp$^2$混成をとり、p軌道を1つもちます。窒素のp軌道にある電子1個を含めてπ電子は6個であり、芳香族性をもちます。 窒素の孤立電子対はsp$^2$混成軌道に入っており、π電子系には関与しません。
ピロール $\text{C}_4\text{H}_5\text{N}$:5員環に窒素原子を含む分子です。 窒素はsp$^2$混成をとり、孤立電子対がp軌道に入ります(ピリジンとは逆)。 二重結合由来のπ電子4個 + 窒素のp軌道中の孤立電子対2個 = 計6個のπ電子があり、芳香族性をもちます。
Q1. ベンゼンの共鳴エネルギー(約 150 kJ/mol)は、どのような実測値の比較から求められますか。
Q2. ヒュッケル則の4つの条件を述べてください。
Q3. シクロオクタテトラエン $\text{C}_8\text{H}_8$ が芳香族性をもたないのはなぜですか。
Q4. シクロペンタジエンの $\text{p}K_\text{a}$ が通常の炭化水素より桁違いに小さい(酸性度が高い)のはなぜですか。
次の用語の意味を簡潔に説明してください。
(1) 共鳴構造
(2) 共鳴エネルギー
(3) 芳香族性
(1) 1つのルイス構造では表現しきれない電子の非局在化を、複数のルイス構造の重ね合わせとして記述したもの。実際の分子がこれらの構造間を行き来しているわけではない。
(2) π電子の非局在化によって得られるエネルギー安定化の大きさ。π電子が局在化した架空の構造と、実際の非局在化した構造とのエネルギー差として定義される。
(3) 環状平面共役系において、$4n+2$ 個のπ電子が非局在化することにより生じる特別な安定化。
シクロヘキセンの水素化熱は $-120 \; \text{kJ/mol}$、1,3-シクロヘキサジエンの水素化熱は $-232 \; \text{kJ/mol}$、ベンゼンの水素化熱は $-208 \; \text{kJ/mol}$ です(いずれも実測値)。
(1) 1,3-シクロヘキサジエンの水素化熱を、シクロヘキセンの値から予想してください。また、実測値との差は何を意味しますか。
(2) ベンゼンの共鳴エネルギーを、シクロヘキセンの水素化熱をもとに計算してください。
(1) 二重結合2つ分として $-120 \times 2 = -240 \; \text{kJ/mol}$ と予想されます。実測値 $-232 \; \text{kJ/mol}$ との差は $|-240 - (-232)| = 8 \; \text{kJ/mol}$ です。これは1,3-シクロヘキサジエンにおける共役(交互に並んだ二重結合の部分的な非局在化)による安定化を反映しています。ただし、環全体にわたる非局在化ではないため、安定化の大きさはベンゼンの共鳴エネルギーよりはるかに小さいです。
(2) 予想水素化熱:$-120 \times 3 = -360 \; \text{kJ/mol}$。共鳴エネルギー:$|-360 - (-208)| = 152 \; \text{kJ/mol}$。
1,3-シクロヘキサジエンの例は、部分的な共役(局所的な非局在化)でも安定化が生じることを示しています。 しかしその大きさ(8 kJ/mol)はベンゼンの共鳴エネルギー(152 kJ/mol)の約5%にすぎません。 ベンゼンでは環全体にわたる完全な非局在化が実現しているため、桁違いに大きな安定化が生じます。
次の(a)〜(d)の分子・イオンについて、ヒュッケル則を用いて芳香族性の有無を判定してください。 判定にあたっては、4つの条件それぞれについて根拠を述べてください。
(a) シクロプロペニルカチオン $\text{C}_3\text{H}_3^+$
(b) シクロペンタジエニルカチオン $\text{C}_5\text{H}_5^+$
(c) ピリジン $\text{C}_5\text{H}_5\text{N}$
(d) フラン $\text{C}_4\text{H}_4\text{O}$
(a) $\text{C}_3\text{H}_3^+$(シクロプロペニルカチオン):芳香族
①環状(3員環)。②3個の炭素すべてがsp$^2$混成で平面。③3個の炭素すべてにp軌道があり完全共役(カチオンの炭素は空のp軌道をもつ)。④π電子数:二重結合1つから2個。カチオンの炭素のp軌道は空。計2個。$4n+2 = 2$($n = 0$)に該当。4条件を満たすため芳香族。
(b) $\text{C}_5\text{H}_5^+$(シクロペンタジエニルカチオン):反芳香族
①環状(5員環)。②5個の炭素すべてがsp$^2$混成で平面。③完全共役。④π電子数:二重結合2つから4個。カチオンの炭素のp軌道は空。計4個。$4n = 4$($n = 1$)に該当し、$4n+2$ ではない。反芳香族。
(c) ピリジン $\text{C}_5\text{H}_5\text{N}$:芳香族
①環状(6員環)。②全原子がsp$^2$混成で平面。③完全共役(窒素もp軌道をもち、環の共役に参加)。④π電子数:C=C二重結合2つから4個 + C=N二重結合1つから2個(窒素側の寄与1個を含む)= 計6個。窒素の孤立電子対はsp$^2$混成軌道に入り、π系には関与しません。$4n+2 = 6$($n = 1$)。芳香族。
(d) フラン $\text{C}_4\text{H}_4\text{O}$:芳香族
①環状(5員環)。②全原子がsp$^2$混成で平面。③完全共役(酸素もp軌道をもつ)。④π電子数:二重結合2つから4個 + 酸素のp軌道中の孤立電子対2個 = 計6個。$4n+2 = 6$($n = 1$)。芳香族。
(a)と(b)の対比が示唆に富みます。同じ5員環のシクロペンタジエニルでも、アニオン($\text{C}_5\text{H}_5^-$、π電子6個)は芳香族、カチオン($\text{C}_5\text{H}_5^+$、π電子4個)は反芳香族です。 電子数が2個変わるだけで安定性が劇的に変わるのが、ヒュッケル則の威力です。
(c)と(d)では、同じ窒素や酸素でも、孤立電子対がπ系に入るかsp$^2$混成軌道に留まるかで、π電子数のカウントが変わります。 ピリジンの窒素は孤立電子対をsp$^2$混成軌道に残す(π電子への寄与は1個)のに対し、 ピロールの窒素やフランの酸素は孤立電子対をp軌道に入れる(π電子への寄与は2個)点が重要です。
「ベンゼンは不飽和度が4であるにもかかわらず、臭素水を脱色しない」という事実を、共鳴エネルギーの概念を用いて説明してください。 比較対象として、同じ不飽和度をもつ鎖状の共役トリエンの場合にどうなるかにも言及してください。
臭素水の脱色は、臭素 $\text{Br}_2$ が二重結合に付加反応を起こすことで生じます。 鎖状の共役トリエン(たとえば1,3,5-ヘキサトリエン)の場合、二重結合への臭素の付加反応は容易に進行し、臭素水は脱色されます。
一方、ベンゼンでは付加反応が起こりにくいため、臭素水を脱色しません。 その理由は、ベンゼンの6個のπ電子が環全体に非局在化しており、約 150 kJ/mol の共鳴エネルギーによる安定化を受けているためです。 付加反応が起こると環状共役系が壊れ、この約 150 kJ/mol の安定化エネルギーが失われます。 このエネルギー損失が付加反応の活性化エネルギーの障壁を大きくし、付加反応が進行しにくくなります。
鎖状の共役トリエンにも部分的な非局在化はありますが、その安定化エネルギーはベンゼンの環状完全非局在化よりもはるかに小さいため、付加反応の障壁にはなりません。