第7章 溶液の性質

溶解の原理
─ エネルギーとエントロピーの競合

高校化学では「極性溶媒には極性溶質が溶けやすい」「似たもの同士が溶ける」と学びます。 NaClが水に溶けること、油が水に溶けないことは、この経験則でうまく説明できるように見えます。 しかし、NaClの溶解は実は吸熱反応($\Delta H > 0$)です。 エネルギー的に不利な過程が自発的に進むのはなぜでしょうか。

大学化学では、溶解の自発性をギブズエネルギー変化 $\Delta G = \Delta H - T\Delta S$ で判定します。 溶解エンタルピー $\Delta H$ と溶解エントロピー $\Delta S$ の競合の結果として $\Delta G < 0$ になるかどうかが、物質が溶けるかどうかを決めます。 この枠組みを使うと、「似たもの同士が溶ける」ルールがなぜ多くの場合に成り立つのか、そしてなぜ例外が存在するのかを、統一的に理解できます。

1高校での扱い ─ 「似たもの同士が溶ける」

高校化学では、溶解について以下のように学びます。

  • 極性溶媒(水など)には極性溶質(イオン結晶、極性分子)が溶けやすい
  • 無極性溶媒(ヘキサンなど)には無極性溶質(油脂、ヨウ素など)が溶けやすい
  • この経験則を「似たもの同士が溶ける」と表現する

また、イオン結晶が水に溶ける仕組みとして、水分子がイオンを取り囲む水和(hydration)を学びます。 Na${}^+$ や Cl${}^-$ のまわりに水分子が配位し、イオン間のクーロン力に打ち勝って結晶を崩すという描像です。

高校で学ぶ溶解エンタルピーは、「溶解が発熱か吸熱か」を示す量です。 NaOHの水への溶解は発熱($\Delta H < 0$)、NH$_4$NO$_3$ の水への溶解は吸熱($\Delta H > 0$)と学びます。 しかし、「吸熱なのになぜ溶けるのか」という問いに対しては、高校の範囲では十分な答えが得られません。

次のセクションでは、この問いに答えるための大学の視点を導入します。

2大学の視点で何が変わるか ─ $\Delta G$ による判定

大学化学では、ある過程が自発的に進むかどうかを、エンタルピー変化 $\Delta H$ だけでなく、 ギブズエネルギー変化 $\Delta G = \Delta H - T\Delta S$ の符号で判定します。 $\Delta G < 0$ であれば自発的に進み、$\Delta G > 0$ であれば自発的には進みません。 溶解もこの原理に従います。

高校 vs 大学:溶解をどう理解するか
高校:極性の一致で判断する
「極性溶媒に極性溶質、無極性溶媒に無極性溶質」が溶けやすい。
吸熱溶解がなぜ起こるかは説明できない。
大学:$\Delta G = \Delta H - T\Delta S$ で判定する
溶解エンタルピー $\Delta H$ と溶解エントロピー $\Delta S$ の競合で $\Delta G$ の符号が決まる。
吸熱溶解も $T\Delta S$ が大きければ自発的に進む。
高校:溶解エンタルピーは一つの数値
NaClの溶解エンタルピーは $+3.9 \; \text{kJ/mol}$ と習う。
大学:溶解エンタルピーを3段階に分解する
格子エネルギー(結合切断)+ 空洞形成 + 溶媒和エネルギーの和として理解する。
溶解の自発性は $\Delta G$ の符号で決まる

この記事を読み終えると、以下のことができるようになります。

1. 溶解の自発性を $\Delta G = \Delta H - T\Delta S$ の符号で判定できる

2. 溶解エンタルピーを「溶質の結合切断」「溶媒の空洞形成」「溶質-溶媒相互作用」の3段階に分解できる

3. NaClの水への溶解が吸熱($\Delta H > 0$)にもかかわらず自発的に進む理由を、エントロピー増大で説明できる

4. 「似たもの同士が溶ける」ルールが成り立つ理由と、その例外が生じる条件を説明できる

この枠組みを使うためには、まずギブズエネルギーの基本を押さえる必要があります。 次のセクションでその要点を確認します。

3準備:ギブズエネルギーの要点

ここで用いるギブズエネルギーの概念は 📖 第8章 §2 で詳しく解説しています。以下では、溶解の議論に必要な要点のみ確認します。

ギブズエネルギー変化 $\Delta G$ とは

ある過程が一定温度・一定圧力のもとで自発的に進むかどうかは、ギブズエネルギー変化 $\Delta G$ の符号で決まります。

ギブズエネルギー変化(定義)

$$\Delta G = \Delta H - T\Delta S$$

$\Delta G$:ギブズエネルギー変化(J/mol)、$\Delta H$:エンタルピー変化(J/mol)、$T$:絶対温度(K)、$\Delta S$:エントロピー変化(J/(mol $\cdot$ K))

この式は熱力学第二法則から導かれる関係式です(導出は 📖 第8章 §2を参照)。 $\Delta G < 0$ のとき、その過程は自発的に進みます。 $\Delta G > 0$ のとき、その過程は自発的には進みません。

この式の意味を確認します。自発性を決める要因は2つあります。

  • エンタルピー項 $\Delta H$:系がエネルギーを放出する方向($\Delta H < 0$、発熱)は $\Delta G$ を負にする方向に働きます。直感的には「エネルギー的に安定な状態に向かう」駆動力です。
  • エントロピー項 $-T\Delta S$:系の乱雑さ(エントロピー $S$)が増大する方向($\Delta S > 0$)は $\Delta G$ を負にする方向に働きます。直感的には「より多くの配置をとれる状態に向かう」駆動力です。

$\Delta G$ の符号は、この2つの項の大小関係で決まります。 $\Delta H > 0$(吸熱)であっても、$T\Delta S$ が $\Delta H$ を上回れば $\Delta G < 0$ となり、過程は自発的に進みます。 これがまさに、吸熱溶解が起こる理由です。

エントロピーの直感的な意味

エントロピー $S$ は、系がとりうる微視的な配置(状態)の数の尺度です。 ここでは厳密な定義には立ち入らず、以下の直感で十分です。

  • 固体の結晶では、粒子は格子点に固定されており、とりうる配置の数は少ない → エントロピーは小さい
  • 溶液中では、溶質粒子は溶媒全体に分散しており、とりうる配置の数は多い → エントロピーは大きい
  • したがって、固体が溶解すると一般に $\Delta S > 0$(エントロピー増大)

ここまでで、溶解の自発性を判定するための道具が揃いました。 次のセクションでは、$\Delta G$ の構成要素である $\Delta H$(溶解エンタルピー)を3段階に分解し、その内訳を理解します。

4溶解エンタルピーの3段階分解

溶解エンタルピー $\Delta H_{\text{sol}}$ は、一つの数値として測定されますが、 その中身を理解するために、次の3つの仮想的なステップに分解して考えます。 エンタルピーは状態量なので、実際の溶解過程がこの3段階を経るかどうかにかかわらず、 最終的な $\Delta H_{\text{sol}}$ はこの3つの寄与の合計になります(ヘスの法則)。

ステップ1:溶質の結合を切断する

固体の溶質を構成する結合を切り、ばらばらの粒子にします。 イオン結晶の場合は格子エネルギー $U$ に相当し、イオン間のクーロン引力に打ち勝つために大きなエネルギーが必要です。 分子結晶の場合は分子間力を断ち切るエネルギーです。 この過程は常に吸熱($\Delta H_1 > 0$)です。

ステップ2:溶媒中に空洞を作る

溶質粒子を受け入れるための空間を溶媒中に確保します。 そのためには、溶媒分子間の相互作用(水の場合は水素結合)を一部切断する必要があります。 この過程も常に吸熱($\Delta H_2 > 0$)です。

ステップ3:溶質-溶媒相互作用(溶媒和)

ばらばらになった溶質粒子が溶媒分子と相互作用します。 水溶液の場合、イオンのまわりに水分子が配位する水和が起こります。 この過程では新しい引力的な相互作用が生じるため、常に発熱($\Delta H_3 < 0$)です。

溶解エンタルピーの3段階分解(ヘスの法則による導出値)

$$\Delta H_{\text{sol}} = \Delta H_1 + \Delta H_2 + \Delta H_3$$

$\Delta H_1$:溶質の結合切断($> 0$、吸熱)
$\Delta H_2$:溶媒中の空洞形成($> 0$、吸熱)
$\Delta H_3$:溶質-溶媒相互作用($< 0$、発熱)

$\Delta H_{\text{sol}}$ の符号は、吸熱の $\Delta H_1 + \Delta H_2$ と発熱の $\Delta H_3$ の大小関係で決まります。 $|\Delta H_3| > \Delta H_1 + \Delta H_2$ なら発熱溶解、$|\Delta H_3| < \Delta H_1 + \Delta H_2$ なら吸熱溶解になります。

「似たもの同士が溶ける」の $\Delta H$ による説明

この3段階分解を使うと、「似たもの同士が溶ける」ルールの $\Delta H$ 側の理由が見えてきます。

極性溶質 + 極性溶媒(例:NaCl + 水): ステップ1(格子エネルギー)は大きいものの、ステップ3(水和エンタルピー)も大きくなります。 イオンと水分子の間にはイオン-双極子相互作用という強い引力が働くためです。 $\Delta H_1 + \Delta H_2$ と $|\Delta H_3|$ が拮抗するため、$\Delta H_{\text{sol}}$ は比較的小さな値(正または負)になります。

無極性溶質 + 無極性溶媒(例:ヨウ素 + ヘキサン): ステップ1(分子間力の切断)は小さく、ステップ2(空洞形成)も小さく、ステップ3(分散力による溶媒和)も小さいですが、 これらがバランスするため $\Delta H_{\text{sol}}$ は小さな値になります。

無極性溶質 + 極性溶媒(例:油 + 水): ステップ2(水の水素結合の切断)は大きいのに、ステップ3(油と水の相互作用)は弱い分散力しかないため非常に小さくなります。 $\Delta H_1 + \Delta H_2 \gg |\Delta H_3|$ となり、$\Delta H_{\text{sol}}$ は大きな正の値になります。

「溶解する = 発熱」ではない

誤解:物質が溶けるということは、溶けた状態の方がエネルギーが低い($\Delta H < 0$)はずだ。

正しい理解:溶解の自発性を決めるのは $\Delta H$ ではなく $\Delta G = \Delta H - T\Delta S$ です。 NaCl($\Delta H_{\text{sol}} = +3.9 \; \text{kJ/mol}$)や NH$_4$NO$_3$($\Delta H_{\text{sol}} = +25.7 \; \text{kJ/mol}$)は吸熱溶解ですが、自発的に溶けます。 これはエントロピー増大($T\Delta S$)がエンタルピー増大($\Delta H$)を上回るためです。

ここまでで、溶解エンタルピーの内訳を理解しました。 しかし、NaClのように $\Delta H_{\text{sol}} > 0$(吸熱)でも溶ける場合があります。 次のセクションでは、もう一つの駆動力であるエントロピー項 $T\Delta S$ を考え、$\Delta G$ の符号がどう決まるかを分析します。

5溶解エントロピーと $\Delta G$ の競合

溶解におけるエントロピー変化

固体が溶媒に溶解するとき、エントロピーはどう変化するでしょうか。 溶解エンタルピーと同様に、段階に分けて考えます。

  • 溶質粒子の分散:結晶中で格子点に固定されていた粒子が、溶液全体に広がります。これはエントロピーを大きく増大させます。トランプのカードがきれいに並んだ状態からばらまかれた状態になるのと同じです。
  • 溶媒分子の秩序化:イオンのまわりの水分子は、イオンとの相互作用により配向が制限されます(水和殻の形成)。これはエントロピーを減少させます。

多くの場合、溶質粒子の分散によるエントロピー増大の方が、溶媒分子の秩序化によるエントロピー減少よりも大きく、 全体として $\Delta S_{\text{sol}} > 0$ となります。

$\Delta G$ の4つのパターン

$\Delta G = \Delta H - T\Delta S$ の符号は、$\Delta H$ と $\Delta S$ の正負の組み合わせによって4つのパターンに分類されます。 溶解に当てはめると、以下のようになります。

パターン $\Delta H$ $\Delta S$ $\Delta G$ の符号 溶解の例
1 $< 0$(発熱) $> 0$(増大) 常に $< 0$(常に自発的) NaOH の水への溶解
2 $> 0$(吸熱) $> 0$(増大) 高温で $< 0$(高温で自発的) NaCl, NH$_4$NO$_3$ の水への溶解
3 $< 0$(発熱) $< 0$(減少) 低温で $< 0$(低温で自発的) 一部の気体の水への溶解
4 $> 0$(吸熱) $< 0$(減少) 常に $> 0$(常に非自発的) 油の水への溶解

パターン2が、この記事で注目している「吸熱だが溶ける」ケースです。 $\Delta H > 0$ でも、$T\Delta S > \Delta H$ となる条件(十分な温度と十分なエントロピー増大)があれば、$\Delta G < 0$ となって自発的に溶解します。

「似たもの同士が溶ける」ルールの本当の理由

「似たもの同士が溶ける」ルールが多くの場合に成り立つ理由は、次のように理解できます。

極性溶質 + 極性溶媒:溶質-溶媒間に強い相互作用($|\Delta H_3|$ が大きい)が働くため $\Delta H_{\text{sol}}$ が適度に小さくなり、エントロピー増大と合わせて $\Delta G < 0$ になりやすい。

無極性溶質 + 無極性溶媒:3段階の $\Delta H$ がいずれも小さく拮抗するため $\Delta H_{\text{sol}} \approx 0$ となり、エントロピー増大だけで $\Delta G < 0$ になる。

無極性溶質 + 極性溶媒:空洞形成コスト($\Delta H_2$)が大きいのに溶媒和エネルギー($|\Delta H_3|$)が小さいため $\Delta H_{\text{sol}} \gg 0$ となり、エントロピー増大では補いきれず $\Delta G > 0$ になる。

つまり、「似たもの同士」ルールの本質は、溶質と溶媒の相互作用の強さ($\Delta H_3$)が空洞形成コスト($\Delta H_2$)を補えるかどうかにあります。

「似たもの同士」ルールの例外

NaClの水への溶解は $\Delta H_{\text{sol}} = +3.9 \; \text{kJ/mol}$ と吸熱です。 「似たもの同士」ルールの $\Delta H$ 側の説明(「極性同士なら強い溶媒和で $\Delta H$ が有利」)だけでは、 この吸熱溶解がなぜ自発的に起こるかを説明できません。

もう一つの顕著な例外は、NH$_4$NO$_3$ の水への溶解です。 $\Delta H_{\text{sol}} = +25.7 \; \text{kJ/mol}$ と大きな吸熱ですが、自発的に溶けます。 即席の冷却パック(ヒヤロン)がこの吸熱溶解を利用しています。

これらの例外は、$\Delta H$ だけでなく $\Delta S$ を考慮することで初めて説明できます。 次のセクションで、NaClを具体例として定量的に確認します。

6応用 ─ NaClの溶解を定量的に分析する

NaClの溶解エンタルピーの内訳

NaClの溶解エンタルピーを3段階に分解します。以下の値は実測データに基づくものです。

ステップ 過程 $\Delta H$ (kJ/mol)
1 NaCl結晶の格子エネルギー(結合切断) $+786$
2 水中の空洞形成 (水和エンタルピーに含めて扱う)
3 Na${}^+$ と Cl${}^-$ の水和エンタルピー $-783$
合計:溶解エンタルピー $\Delta H_{\text{sol}}$ $+3.9$

ここでは、ステップ2(空洞形成)のエンタルピーをステップ3(水和エンタルピー)に含めた形で示しています。 実験で直接測定されるのは、格子エネルギー $U = +786 \; \text{kJ/mol}$ と水和エンタルピーの合計 $\Delta H_{\text{hyd}} = -783 \; \text{kJ/mol}$ (Na${}^+$ の水和エンタルピー $-405 \; \text{kJ/mol}$ と Cl${}^-$ の水和エンタルピー $-378 \; \text{kJ/mol}$ の和)です。

格子エネルギーと水和エンタルピーはともに数百 kJ/mol のオーダーですが、ほぼ拮抗しており、 差し引きの溶解エンタルピーはわずか $+3.9 \; \text{kJ/mol}$ です。 これは格子エネルギーのわずか 0.5% に過ぎません。

$\Delta G$ の計算

NaClの溶解エントロピーの実測値は $\Delta S_{\text{sol}} = +43.4 \; \text{J/(mol} \cdot \text{K)}$ です。 $T = 298 \; \text{K}$($25 \; {}^\circ\text{C}$)における $\Delta G$ を計算します。

NaClの溶解の $\Delta G$ の計算

与えられた値:

$\Delta H_{\text{sol}} = +3.9 \; \text{kJ/mol} = +3900 \; \text{J/mol}$

$\Delta S_{\text{sol}} = +43.4 \; \text{J/(mol} \cdot \text{K)}$

$T = 298 \; \text{K}$

計算:

$$\Delta G = \Delta H - T\Delta S = 3900 - 298 \times 43.4 = 3900 - 12930 = -9030 \; \text{J/mol}$$

$$\Delta G = -9.0 \; \text{kJ/mol}$$

結果の解釈:$\Delta G < 0$ なので、NaClの水への溶解は $25 \; {}^\circ\text{C}$ で自発的に進みます。

エンタルピー項 $\Delta H = +3.9 \; \text{kJ/mol}$ は溶解を妨げる方向に働きますが、 エントロピー項 $T\Delta S = +12.9 \; \text{kJ/mol}$ がそれを大きく上回ります。 NaClの溶解はエントロピー駆動の過程です。

この結果は明確なメッセージを伝えています。 NaClが水に溶けるのは、「水和によってエネルギーが下がるから」ではありません。 エネルギー的にはわずかに不利($\Delta H > 0$)です。 それでも溶けるのは、イオンが結晶格子から解放されて溶液全体に分散することで、 系がとりうる配置の数が大幅に増える($\Delta S > 0$)からです。

温度依存性 ── NaClの溶解度が温度であまり変わらない理由

高校化学で学ぶ溶解度曲線を思い出すと、NaClの溶解度は温度による変化が非常に小さいことがわかります。 これを $\Delta G$ の式から理解できます。

$\Delta G = \Delta H - T\Delta S$ において、$\Delta H$ が非常に小さい($+3.9 \; \text{kJ/mol}$)ため、 温度 $T$ を変えても $\Delta G$ の変化は主に $-T\Delta S$ の変化に依存します。 しかし、$\Delta H \approx 0$ ということは、ルシャトリエの原理から見ると、 温度を変えても平衡がほとんど移動しないことを意味します。 その結果、NaClの溶解度は温度にあまり依存しません。

一方、NH$_4$NO$_3$ は $\Delta H_{\text{sol}} = +25.7 \; \text{kJ/mol}$ と大きな吸熱なので、 温度を上げると溶解平衡が溶解方向に大きく移動し、溶解度が急激に増加します。 高校の溶解度曲線で NH$_4$NO$_3$ の傾きが急であることは、$\Delta H_{\text{sol}}$ の大きさで説明できます。

疎水効果 ── 無極性溶質が水に溶けにくいもう一つの理由

無極性溶質(油など)が水に溶けにくいことを、セクション4では $\Delta H$ の観点から説明しました。 しかし、実は $\Delta S$ の観点からも不利な要因があります。

無極性分子が水中に入ると、その周囲の水分子は水素結合のネットワークを維持するために 特殊な配置(かご状の構造、クラスレート構造)をとります。 これにより水分子の自由度が制限され、$\Delta S < 0$ となります。 この現象を疎水効果(hydrophobic effect)と呼びます。

つまり、油が水に溶けないのは $\Delta H > 0$(空洞形成コストが大きい)かつ $\Delta S < 0$(水分子が秩序化される)であり、 上の表のパターン4に該当します。 $\Delta G$ は常に正になるため、温度を上げても溶けにくいままです。

7つながりマップ

  • 前提知識:溶解、水和、溶解エンタルピー、ヘスの法則(高校化学の範囲)
  • 前提知識📖 C-2-4 分子間力 ── イオン-双極子相互作用、水素結合、分散力の強さの違いが、溶解エンタルピーの3段階分解に直接関わります。
  • 前提知識📖 C-8-2 ギブズエネルギー ── $\Delta G = \Delta H - T\Delta S$ の導出と意味を詳しく解説しています。
  • 発展📖 C-7-2 束一的性質の導出 ── 溶解が起こった後の溶液の性質(沸点上昇、凝固点降下、浸透圧)を、ラウールの法則から導きます。
  • 関連📖 C-2-1 イオン結合 ── 格子エネルギーの定量的な議論(ボルン・ハーバーサイクル)は、この記事で用いた溶解エンタルピーの分解の基礎です。
まとめ
  • 溶解の自発性は、エンタルピー変化 $\Delta H$ だけでは判定できません。 $\Delta G = \Delta H - T\Delta S$ の符号が $\Delta G < 0$ であるとき、溶解は自発的に進みます。
  • 溶解エンタルピー $\Delta H_{\text{sol}}$ は、「溶質の結合切断」($\Delta H_1 > 0$)、「溶媒中の空洞形成」($\Delta H_2 > 0$)、「溶質-溶媒相互作用」($\Delta H_3 < 0$)の3段階の和として理解できます。
  • 固体の溶解では一般にエントロピーが増大します($\Delta S > 0$)。 これは、結晶格子に固定されていた粒子が溶液全体に分散するためです。
  • NaCl($\Delta H_{\text{sol}} = +3.9 \; \text{kJ/mol}$)はエントロピー駆動で溶解します。 $T\Delta S = +12.9 \; \text{kJ/mol}$ がエンタルピーの不利を上回り、$\Delta G = -9.0 \; \text{kJ/mol} < 0$ となります。
  • 「似たもの同士が溶ける」ルールの本質は、溶質と溶媒の相互作用($\Delta H_3$)が空洞形成コスト($\Delta H_2$)を補えるかどうかにあります。 このルールの例外(吸熱溶解)は、エントロピー項 $T\Delta S$ を考慮して初めて説明できます。

9確認テスト

理解度チェック

Q1. ある固体の溶解エンタルピーが $\Delta H_{\text{sol}} > 0$(吸熱)であるにもかかわらず、自発的に溶解しました。この現象を $\Delta G = \Delta H - T\Delta S$ を使って説明してください。

クリックして解答を表示 $\Delta H > 0$ であっても、溶解エントロピー $\Delta S > 0$ が十分に大きく、$T\Delta S > \Delta H$ となれば、$\Delta G = \Delta H - T\Delta S < 0$ となり自発的に溶解します。固体が溶解すると粒子が結晶格子から解放されて溶液全体に分散するためエントロピーが増大し、このエントロピー駆動力がエンタルピーの不利を上回ることで吸熱溶解が起こります。

Q2. 溶解エンタルピーの3段階分解のうち、「ステップ2(溶媒中の空洞形成)」のエンタルピーが特に大きくなるのは、溶媒がどのような性質を持つ場合ですか。

クリックして解答を表示 溶媒分子間の相互作用が強い場合です。特に水は分子間で水素結合のネットワークを形成しているため、空洞を作るにはこの水素結合を切断する必要があり、$\Delta H_2$ が大きくなります。これが、無極性溶質が水に溶けにくい主な原因の一つです。

Q3. NaClの溶解度が温度によってあまり変化しないのはなぜですか。$\Delta H_{\text{sol}}$ の値を使って説明してください。

クリックして解答を表示 NaClの溶解エンタルピーは $\Delta H_{\text{sol}} = +3.9 \; \text{kJ/mol}$ と非常に小さい値です。ルシャトリエの原理によると、吸熱反応は温度を上げると正反応(溶解)の方向に進みますが、$\Delta H_{\text{sol}}$ がほぼゼロに近いため、温度変化に対する平衡移動が小さく、溶解度はほとんど変化しません。

Q4. 無極性分子(例:メタン)が水に溶けにくい理由を、$\Delta H$ と $\Delta S$ の両方の観点から説明してください。

クリックして解答を表示 $\Delta H$ の観点:水の水素結合を切断して空洞を作るコスト($\Delta H_2$)が大きいのに、メタンと水の間の相互作用は弱い分散力のみで溶媒和エネルギー($|\Delta H_3|$)が小さいため、$\Delta H_{\text{sol}} > 0$ です。$\Delta S$ の観点:無極性分子のまわりの水分子はかご状の秩序構造をとるため、水分子の自由度が減少し $\Delta S < 0$ となります(疎水効果)。$\Delta H > 0$ かつ $\Delta S < 0$ なので $\Delta G > 0$ が常に成り立ち、温度を上げても溶けにくいままです。

10演習問題

問1 A 基本

溶解エンタルピーの3段階分解において、各ステップの $\Delta H$ の符号(正/負)を答え、それぞれがどのような過程に対応するかを説明してください。

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解答

ステップ1(溶質の結合切断):$\Delta H_1 > 0$(吸熱)。結晶を構成する結合(イオン結合、分子間力など)を切断するためにエネルギーが必要。

ステップ2(溶媒中の空洞形成):$\Delta H_2 > 0$(吸熱)。溶媒分子間の相互作用を一部切断して溶質粒子を受け入れる空間を作るためにエネルギーが必要。

ステップ3(溶質-溶媒相互作用):$\Delta H_3 < 0$(発熱)。溶質粒子と溶媒分子の間に新しい引力的相互作用(水和など)が形成されてエネルギーが放出される。

問2 B 計算

KClの格子エネルギーは $+715 \; \text{kJ/mol}$、K${}^+$ の水和エンタルピーは $-340 \; \text{kJ/mol}$、 Cl${}^-$ の水和エンタルピーは $-378 \; \text{kJ/mol}$ です。

(a) KClの溶解エンタルピー $\Delta H_{\text{sol}}$ を求めてください。

(b) KClの溶解エントロピーが $\Delta S_{\text{sol}} = +75.0 \; \text{J/(mol} \cdot \text{K)}$ であるとき、$T = 298 \; \text{K}$ における $\Delta G$ を求めてください。

(c) この溶解はエンタルピー駆動ですか、エントロピー駆動ですか。理由とともに答えてください。

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解答

(a)

$$\Delta H_{\text{sol}} = U + \Delta H_{\text{hyd}} = (+715) + (-340) + (-378) = -3 \; \text{kJ/mol}$$

わずかに発熱です(ほぼゼロ)。

(b)

$$\Delta G = \Delta H - T\Delta S = (-3000) - 298 \times 75.0 = -3000 - 22350 = -25350 \; \text{J/mol}$$

$$\Delta G = -25.4 \; \text{kJ/mol}$$

(c) エントロピー駆動です。$\Delta H = -3 \; \text{kJ/mol}$ はほぼゼロであり、$\Delta G$ を大きく負にしているのは主にエントロピー項 $T\Delta S = +22.4 \; \text{kJ/mol}$ です。エンタルピーの寄与($-3 \; \text{kJ/mol}$)はエントロピー項と比べてはるかに小さいため、KClの溶解はエントロピー増大によって駆動されています。

問3 B 計算

ある固体の溶解エンタルピーが $\Delta H_{\text{sol}} = +20.0 \; \text{kJ/mol}$、 溶解エントロピーが $\Delta S_{\text{sol}} = +60.0 \; \text{J/(mol} \cdot \text{K)}$ です。

(a) この固体が自発的に溶解するための温度条件を求めてください。

(b) $T = 400 \; \text{K}$ における $\Delta G$ を計算してください。

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解答

(a) $\Delta G < 0$ となる条件は、

$$\Delta H - T\Delta S < 0$$

$$T > \frac{\Delta H}{\Delta S} = \frac{20000}{60.0} = 333 \; \text{K} = 60 \; {}^\circ\text{C}$$

$333 \; \text{K}$($60 \; {}^\circ\text{C}$)を超える温度で自発的に溶解します。

(b)

$$\Delta G = 20000 - 400 \times 60.0 = 20000 - 24000 = -4000 \; \text{J/mol} = -4.0 \; \text{kJ/mol}$$

$\Delta G < 0$ であり、$400 \; \text{K}$ では自発的に溶解します。

解説

$\Delta H > 0$ かつ $\Delta S > 0$ の場合(上の表のパターン2)、高温ほど $T\Delta S$ が大きくなるため $\Delta G < 0$ になりやすくなります。$\Delta G = 0$ となる温度($T = \Delta H / \Delta S$)が溶解が始まる境界温度です。実際の溶解度は、この単純な計算よりも複雑な平衡の扱いが必要ですが、「高温で溶けやすくなる」という定性的な結論は正しいものです。

問4 C 論述

次の3つの系について、溶解エンタルピー $\Delta H$、溶解エントロピー $\Delta S$、$\Delta G$ の符号を予測し、 溶解するかどうかを $\Delta G = \Delta H - T\Delta S$ の観点から論じてください。

(a) ヨウ素 I$_2$ をヘキサン C$_6$H$_{14}$ に溶かす

(b) 食用油をヘキサン C$_6$H$_{14}$ に溶かす

(c) 食用油を水 H$_2$O に溶かす

クリックして解答を表示
解答

(a) ヨウ素 + ヘキサン:溶ける

ヨウ素(無極性分子結晶)とヘキサン(無極性溶媒)はともに無極性です。 ステップ1(I$_2$ の分子間力の切断)は比較的小さく、ステップ2(ヘキサン中の空洞形成)も小さく、ステップ3(I$_2$ とヘキサン間の分散力)も小さいですが、これらがバランスします。 $\Delta H \approx 0$(小さな正または負)、$\Delta S > 0$(分散)であり、$\Delta G < 0$ となって自発的に溶解します。

(b) 食用油 + ヘキサン:溶ける

食用油(無極性)とヘキサン(無極性)はともに無極性であり、(a)と同様の議論が成り立ちます。 $\Delta H \approx 0$、$\Delta S > 0$ で $\Delta G < 0$ です。実際に、油はヘキサンによく溶けます。

(c) 食用油 + 水:溶けない

食用油(無極性)を水(極性溶媒)に溶かす場合、ステップ2(水の水素結合切断)が大きいのに、ステップ3(油と水の間の分散力)は非常に小さいため $\Delta H \gg 0$ です。 さらに、油のまわりの水分子がかご状構造をとるため $\Delta S < 0$ です(疎水効果)。 $\Delta H > 0$ かつ $\Delta S < 0$ なので $\Delta G > 0$ が常に成り立ち、溶解しません。